HISTORICAL PERSON · 紀元前423年没

ティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌス・バルバトゥス

共和政ローマの政治家・軍人で、執政官を6回務めた。紀元前471年にアッピウスと護民官の衝突を仲裁し、紀元前468年にはウォルスキ族を破ってアンティウムを降し凱旋式を行った。温和な人柄だったとされる。

生涯
紀元前423年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌス・バルバトゥスは、共和政ローマの政治家であり軍人である。紀元前513年に生まれ、紀元前423年に没したとされ、執政官(コンスル)を6回務めた。属するクィンクティウス氏族はローマで最も古いパトリキ(貴族)の家の一つである。父と祖父はともにルキウス・クィンクティウスといい、紀元前460年・458年・439年に独裁官となったルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥスは、おそらく兄弟にあたる。リウィウスによれば、生来温和な人柄で、紀元前423年には90歳でなお健在だったという。

最初の執政官就任は紀元前471年で、同僚はアッピウス・クラウディウスであった。アッピウスは非妥協的な性格で、元老院は護民官の選出法をめぐる法案に対抗させるために彼を選んだ。しかし弁舌で護民官を挑発したアッピウスに平民が激高し、流血の寸前となったとき、ティトゥスが仲裁に入ってアッピウスを元老院議会場へ退かせ、群衆をかろうじて鎮めた。支持を失ったアッピウスは採決を認めるほかなく、法案は成立した。その後、ウォルスキ族とアエクイ族が襲来した。アッピウスの軍は兵に憎まれて敗走したが、ティトゥスはアエクイを退け、戦利品をすべて兵に分け与えて帰還し、元老院と平民の和解にも成功した。

紀元前468年には再び執政官となり、同僚はクィントゥス・セルウィリウスであった。平民が選挙への参加を拒むなか、パトリキとその被護民がティトゥスを選んだとされる。サビニ族とウォルスキ族が攻めてくると、国内の争いは一時収まった。ティトゥスはウォルスキに向かい、数で劣るため敗北を避ける策をとった。丘の上の敵を攻めることをためらったが、兵の求めに押されて攻撃を命じた。ローマ軍の第一列は押し返されて逃げたものの、ティトゥスは自ら兵を率いて丘を上り、敵を野営地に押し戻して、その野営地を占領した。続いてウォルスキの都アンティウムを攻め、短い包囲の末に降伏させ、ローマで凱旋式を行った。翌紀元前467年には、公有地をめぐる対立を避けるためアンティウムへの植民が行われ、ティトゥスは土地を分配する3人の一人となった。
紀元前465年に3度目の執政官となり、アルギドゥス山の近くでアエクイに勝った。アエクイがローマ領を荒らして市民が恐れると、ティトゥスは人々を落ち着かせて軍を組織し、この年に人口調査も行った。紀元前464年には、ヘルニキ族の領内で敗れ野営地を包囲された執政官フリウスを救うため、元老院からプロコンスルとして軍事指揮権を与えられた。同盟国やヘルニキ、アンティウムの入植者からなる軍を率い、アエクイを背後から攻めて包囲を破らせ、勝利を収めた。

紀元前446年、約20年ぶりに4度目の執政官となった。十人委員会の解散後に国内が乱れ、アエクイとウォルスキがラティウムを略奪していたが、平民は従軍を拒んでいた。ティトゥスは、敵ではなくパトリキを攻撃していると訴える演説を行い、市民は喜んで従軍を望むようになった。同僚のアグリッパ・フリウスは最高指揮権をティトゥスに渡し、ローマ軍は敵の連合軍を撃退して、大量の戦利品を得た。紀元前443年の5度目には、同僚がアルデアの救援に出ている間も市内にとどまって秩序を保ち、久しぶりに内紛が起きなかったため、元老院も市民も敬意を払った。紀元前439年に6度目で最後の執政官となった。この年は飢饉で、裕福な平民スプリウス・マエリウスが私財で小麦を配って人気を集め、王になろうとしているとみなされた。両執政官は80歳を超えたキンキナトゥスを独裁官に任命した。

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