HISTORICAL PERSON · 紀元前 423年没

アルタクセルクセス1世

アケメネス朝ペルシアの王で、添え名は「長き手」。温和で寛大な王とされ、エジプトの反乱を鎮め、前449年頃のカリアスの和約でペルシア戦争を終結させたとされる。

生涯
紀元前 423年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アルタクセルクセス1世は、アケメネス朝ペルシア帝国の王で、在位は紀元前465年8月から紀元前424年12月ごろとされる。ギリシアの著述家は「長き手」を意味する添え名で呼んだ。温和さと寛大さにおいて最も優れたペルシア王とされている。父はクセルクセス1世、母は王妃アメストリスである。なお、父王が先代と共同統治をしていた点などから、即位を紀元前475年とみる主張もあり、年代には異説がある。

紀元前465年8月、父王が宦官の協力を得た近衛隊長に暗殺され、これに関連して王太子の兄も死ぬと、若きアルタクセルクセスが王位を継ぎ、アルタバノスらを処刑した。治世の初めにはバクトリア総督が反乱を起こしたが、鎮圧された。この総督は王の兄弟であったともいわれる。紀元前460年ごろには、リビア人の首長がアテナイの支援を受けてエジプトで反乱を起こした。反乱軍とアテナイ軍はパプレミスの戦いでペルシア軍に勝ち、アテナイ艦隊はペルシア艦隊50隻を破って、メンフィスの「白き城壁」でペルシア軍を包囲した。王はスパルタを買収しようとして失敗したため、シリア総督を派遣して包囲を破らせた。首長イナロスはビュブロスに退いたのち捕らえられ、紀元前454年ごろに反乱は鎮圧された。

クテシアスによれば、捕虜になったイナロスとギリシア兵が約束に反して処刑されたことから、メガビュゾスが反乱を起こした。ペルシア軍が敗れたのち、王はメガビュゾスと和解し、再び対立が生じても和解したという。対ギリシア関係では、父王の最大の敵とされたテミストクレスの亡命を受け入れたと伝わる。紀元前450年、キモンがデロス同盟の200隻の艦隊を率いてキプロスに遠征し、エジプトに向かった船を除く140隻がキティオンを包囲する中で死んだ。同盟軍はサラミスの海戦で勝って帰還した。紀元前449年ごろにはカリアスの和約が結ばれ、ペルシア戦争が正式に終わったとされるが、この和約が存在したかどうかには議論がある。ペロポネソス戦争が始まると、アテナイとスパルタは共にペルシアとの同盟を試みたが、ペルシアは中立を貫いた。

王は、父王が着手した首都ペルセポリスの玉座の間(百柱の間)などを完成させた。この時代にスーサのアパダーナ宮殿が焼失している。在位41年目の紀元前424年12月ごろに崩御し、王墓はナクシェ・ロスタムにある。死後は、嫡出の息子クセルクセス2世と、庶出の17人の息子のうちソグディアノスとオコス(のちのダレイオス2世)が王位を争った。

旧約聖書の『エズラ記』『ネヘミヤ記』に登場するアルタクセルクセス王は、一般にこの王を指すとされる。王は祭司で書記官のエズラに、バビロンからエルサレムへ行くことを許し、神殿への奉納や税の免除などの支援を与えた。エズラは治世7年目にエルサレムに着いた。また王は、ユダヤ人によるエルサレムの城壁再建を一度は中止させたが、治世20年目には献酌官ネヘミヤの願いを聞き入れ、彼を総督としてユダのエルサレムに遣わし、再建を許可した。通過のための書状や、王の森林管理者から木材を与えさせる書状も授け、将校と騎兵も派遣した。ネヘミヤはエルサレムとその城壁の再建を成し遂げ、治世32年目には王のもとへ行き、しばらくして王の許しを得てエルサレムに戻った。エズラに宛てた文書では、神の律法と王の法律に違反した者を罰することも命じている。

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