伝記
ソグディアノスは、アケメネス朝ペルシア帝国の王である。在位は紀元前424年ごろから紀元前423年までの短い期間とされ、クテシアスはセキュンディアノスと呼ぶ。マネトンやディオドロスもギリシア語で別の綴りの名を伝えている。ペルシア王アルタクセルクセス1世と、バビロニア出身の側室アロギュネとの間に生まれた庶子とされる。父王には嫡出の子がクセルクセス2世ひとりだけで、その母は王妃ダマスピアであった。ほかに側室の子が十七人いたといわれ、のちのダレイオス2世となるオコスはコスマルティデネの子、アルシテスも同じ母の子である。バガパイオスとパリュサティスはバビロニア出身のアンディアの子とされる。オコスはヒュルカニアの総督を務め、異母妹のパリュサティスと結婚していた。
アルタクセルクセス1世の存命を示す最後の粘土板文書は、紀元前424年12月24日付である。父の死後、少なくとも三人の息子が王を名乗ったと考えられている。最初が王太子のクセルクセス2世で、支持はペルシア本土に限られたらしい。二人目がソグディアノスで、当初はエラムでのみ王と認められたと推測されている。三人目が総督のオコスで、その最初の文書は紀元前423年1月10日付であり、メディア、バビロニア、エジプトで認められたようである。クセルクセス2世とソグディアノスの名を記す同時代のバビロニアの文書は存在しない。三人が同時に王を名乗ったとすれば、帝国には短期間、王の中の王が三人いたことになる。
これらの経緯はクニドスのクテシアスが記しているが、その著作は現代の歴史学では信頼性が低いとされる。クテシアスによれば、クセルクセス2世は父の死から45日後、祭りで酒に酔って眠っていたところを、宦官のパルナキュアスとメノスタネスに殺された。この二人はソグディアノスの側につき、その命を受けた共謀者であったという。父王の遺体と王子の遺体は一緒にパサルガダイへ運ばれたとする伝えもある。父の遺体を運ぶはずのラバが、まるで息子を待つかのように歩まず、息子の遺体が着くと動き出したためだという。なお、クセルクセス2世の治世は一年、二か月、十五日など、伝えにより長さが異なる。ソグディアノスはさらにバゴラゾスを石打ちで殺させ、軍の不満を招いたともいう。こうして王位に就いたソグディアノスは、6か月と15日(7か月ともされる)の間、位にあったとされる。
ソグディアノスは異母兄弟のオコスを宮廷に呼んだが、オコスは従わなかった。クテシアスによれば、オコスは将軍や宦官と結び、騎兵隊長やエジプト総督らとも共謀して大軍を集め、ダレイオス2世として王位に就いた。自分が王位から外されたことを不名誉と感じて反乱を起こしたともいわれる。ソグディアノスは策略にかかって捕らえられた。オコスは、剣によっても毒によっても飢えによっても死なせないと約束したとされ、ソグディアノスは灰の中で窒息させられて処刑された。火によって殺されたとする伝えもある。パルナキュアスは石打ちの刑に処され、メノスタネスは捕らえられ有罪とされたが、先に自殺した。
オコスは、ソグディアノスの死後、ダレイオス2世として単独で帝国を支配し、その統治は紀元前404年まで続いた。ダレイオス2世の治世は19年に及んだとされ、ソグディアノスはその前に位にあった短命の王である。ソグディアノスの短い治世は、第89回オリンピア紀に当たるとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アルタクセルクセス1世 (紀元前 423年)
- ティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌス・バルバトゥス (紀元前423年没)
同じ地域に関係する人物
- ルトフ・アリー・ハーン (1794年没)
- アボルファトフハーン・ザンド (1787年没)
- Ali ibn Mohammed al-Jurjani (1413年没)
- サーディク・ハーン (1782年没)
- Gaumata (紀元前521)