HISTORICAL PERSON · 1503年没

アレクサンデル6世 (ローマ教皇)

ルネサンス期の世俗化した教皇の代表(在位1492〜1503年)。息子チェーザレ・ボルジアを右腕に、一族の繁栄と教皇庁の軍事的自立に努め、イタリアを戦火に投じた。

生涯
1503年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
スペイン王国(シャティヴァ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

アレクサンデル6世は、1431年にバレンシア王国のシャティヴァで生まれた。本名はロデリク・ランソルといい、母方の伯父がカリストゥス3世として教皇に就任したのに伴い、母方の姓ボルハに改めた。イタリア語読みのロドリーゴ・ボルジアの名で知られる。ボローニャ大学で法学を学び、伯父に引き立てられて司教、枢機卿、教皇庁財務部副院長となり、以後5人の教皇に仕えるなかで経験と富、人脈を築いた。若い頃はまだ節度があり派手な生活はしていなかったが、当時の高位聖職者と同様にモラルは堕ちきっており、金と女に情熱を傾けて、すでに数人の子が愛人たちから生まれていた。1458年には品行の悪さをピウス2世から叱責されている。

インノケンティウス8世が没すると、教皇位はロドリーゴ、アスカニオ・スフォルツァ、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(後の教皇ユリウス2世)の3人の枢機卿によって争われた。イタリア人の支持を得たローヴェレが有利と見られたが、ロドリーゴはアスカニオを含む多くの枢機卿を買収することに成功した。こうして第214代の教皇に選出され、アレクサンデル6世を名乗った。このコンクラーヴェの贈収賄は広く知られ、三重冠を金で買ったと非難される原因となった。

治世の初めは、教会法の厳密な遵守と円滑な教会統治が徹底され、それ以前の教皇たちの出鱈目さとは対照的に見えた。困窮していた財政を立て直すために支出を切りつめ、率先して質素な生活を送り、他の枢機卿には不評だったが財政は好転した。しかしネポティズムは改めなかった。愛人ヴァノッツァ・カタネイとの間の息子チェーザレは、16歳でまだピサ大学の学生であったが、バレンシアの大司教に取り立てられ、従兄弟のジョバンニも枢機卿となった。ボルジア家だけで最終的に5人の枢機卿が任命された。さらに息子のガンディア公ホアンとホフレのために教皇領とナポリ王国領を割譲しようとしたことから、ナポリ王フェルディナンド1世と激しく対立し、ローヴェレ枢機卿の反発も受けた。娘のルクレツィアは、いったんスペイン人と婚約していたが、父の教皇登位に伴い父の元へ戻り、ペーザロ公と結婚させられた。結婚式はバチカンで華々しく行われた。一方でローマの治安は悪化し、殺人や強盗は日常茶飯事であった。

1494年にフェルディナンド1世が没すると、フランス王シャルル8世がナポリ王位の継承を主張し、教皇がこれを認めなかったためフランス軍がイタリアに侵攻した。教皇軍とナポリ軍は敗れ、12月31日にシャルル8世はローマに入城した。教皇は退位させられて公会議で断罪されるのではと恐れたが、シャルル8世に影響力を持つサンマロ司教を枢機卿位と引き換えに抱き込むことに成功した。退位は求められず、その代わりに、使節の名目でチェーザレを差し出すこと、オスマン帝国へのカードとなるジェムの引き渡し、軍港チヴィタヴェッキアの割譲などの条件を呑んだ。1495年3月に教皇は神聖ローマ帝国、ヴェネツィア、ミラノ、スペインと同盟を結び、対オスマン戦を名目にフランスを包囲した。シャルル8世は撤収し、フォルノーヴォの会戦を経て11月にフランスへ帰国した。その後、息子のガンディア公ホアンがテヴェレ川で死体となって見つかると、教皇は嘆き悲しみ、サンタンジェロ城に引きこもったという。真犯人は分かっていない。教皇は1503年8月18日に没した。

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