伝記
マルクス・ディディウス・セウェルス・ユリアヌスは、第19代ローマ皇帝である。在位は193年3月28日から6月1日までで、五皇帝の年における二番目の帝位請求者にあたる。生年は133年1月30日とされるが、日付を1月29日、没日を6月2日とする資料もある。自由民階層の出身だった先帝ペルティナクスと違い高貴な血筋であったが、治世は同じく短命に終わった。近衛隊による帝位の競売で皇帝となったことで知られる。
クィントゥス・ペトロニウス・ディディウス・セウェルス将軍とアエミリア・クララの長男として生まれた。父はメディオラヌム随一の名家であったセウェルス家の当主で、母は属州アフリカに殖民した上流貴族の末裔であり、その一族は第7代皇帝オトとも親戚関係にあった。生年は、カッシウス・ディオが133年、『ローマ皇帝群像』が137年と記し、食い違っている。宮廷ではマルクス・アウレリウス帝の母ドミティア・ルキッラの引き立てで昇進したと考えられ、若くして二十人官に任命されたのは、家柄を考えても異例の抜擢だった。153年ごろにマヌリア・セカンティッラと結婚し、一人娘のディディア・クララを儲けた。
財務官や造営官を歴任し、162年に法務官となった。第22軍団プリミゲニアの指揮官としてモゴンティアクムに赴任し、170年から五年間はガリア・ベルギカ総督を務めた。任期中にカウキー族を討伐した軍功で、175年にペルティナクスとともに執政官に就いた。続いてカッティ族との戦いでも勝ち、ダルマチアと低地ゲルマニアの総督にも任じられた。蓄えた財産を貧しい人々に惜しみなく分け与え、高い名声を得たという。コンモドゥスの治世には皇帝暗殺を企てたと告発されたが、裁判で無関係と分かり、逆に告発した政敵が罰せられた。その後、ビテュニア総督を務め、ペルティナクスの後任としてアフリカ総督に就いた。
193年、コンモドゥスが暗殺され、後を継いだペルティナクスも元老院と近衛隊の支持を失って、わずか三か月で暗殺された。適当な候補が見つからないなか、近衛隊が元老院に諮らず、前代未聞の「帝位競売」を行った。首都長官でペルティナクスの妻の父スルピキアヌスがまず名乗りを上げ、ユリアヌスは妻と娘と夕食中だったが、駆けつけたときには門が閉ざされており、外から大声で値を叫んだと伝わる。スルピキアヌスが全近衛兵に2万セルティウスを約束すると、ユリアヌスは2万5000を宣言した。門は開かれ、兵士たちは彼を皇帝と呼んで宮殿へ迎えた。元老院も近衛隊に脅されて即位を認め、妻と娘にも皇妃の称号が与えられた。
金で帝位を買った皇帝を、民衆は冷ややかに迎えた。姿を見せるたびに「簒奪者」と陰口を言われ、石を投げられて元老院議事堂へ向かうのを妨げられたこともあった。この不人気を知った、シリア総督ニゲル、ブリタニア総督アルビヌス、パンノニア総督セプティミウス・セウェルスの三将軍が反旗を翻した。ユリアヌスは最も近いセウェルスを「国家の敵」とし、近衛隊に再訓練を施したが、迫ってきたセウェルス軍に敗れた。共同皇帝の提案も無視され、近衛隊も寝返り、元老院は帝位競売を無効としてユリアヌスを僭称帝と弾劾した。193年6月1日、ユリアヌスは近衛兵によって暗殺された。遺骸は娘に渡され、父や祖父の眠る土地に葬られたと伝わる。ディオによれば、最後の言葉は「私が何をした、私が誰を殺したというのだ」であった。
同じ年に亡くなった人物
- Marcia (193年没)
- ナルキッソス (193年没)
- マヌリア・セカンティッラ (193年)
- ペルティナクス (193年没)
- クラウディウス・ポンペイアヌス (193年)
同じ地域に関係する人物
- ルートヴィヒ・カース (1952年没)
- ホノリウス3世 (ローマ教皇) (1227年没)
- ニコラ・カビボ (2010年没)
- Decimus Laberius (紀元前42)
- ジュゼッペ・サーラガト (1988年没)