伝記
メルシアのチャドは、七世紀のアングロ・サクソン人の聖職者で、ケッダとも呼ばれる。634年ごろに生まれ、672年3月2日に没したとされる。ノーサンブリアの出身で、のちにマーシアとリンジーの司教となった。カトリック教会、聖公会、正教会で聖人とされる。
チャドにはケッド、キニビル、ケリンという三人の兄がおり、四人とも司祭に叙階され、そのうちケッドとチャドは司教になった。チャドはリンディスファーンの初代司教アイダンの弟子で、若いころの一時期はアイルランドのラスメルシジ修道院で過ごした。そこでは、同じくノーサンブリアの貴族の出で、信仰と宣教の熱意で知られたエクバートと行をともにした。664年、東サクソン人の司教だった兄ケッドが、院長を務めるデイラのラスティンガムの修道院で疫病のために亡くなった。チャドはその指名を受けて、後を継いで院長となった。
同じ年、ウィットビーで教会会議が開かれ、ウィルフリッドの働きでローマ式の復活祭の日取りを採ることが決まった。ノーサンブリアではリンディスファーンの司教コルマンが辞し、後任のトゥダも間もなく疫病で亡くなった。ウィルフリッドが司教に選ばれたが、叙階を受けにガリアへ渡ったまま長く戻らなかったため、ノーサンブリア王オスウィと人々はしびれを切らし、チャドを司教にすることにした。チャドは、のちにリポンの司教となるエアドヘドを伴ってカンタベリーへ向かったが、大司教デウスデディトがちょうど亡くなっていた。そこでウェセックスに赴き、ウィンチェスター司教ウィニによって、二人のブリトン人司教の補佐のもとに叙階された。ヨークの司教として三年ほどのあいだ、祈りと学び、教区の巡回と説教と洗礼に時を割き、旅はすべて徒歩で、使徒たちのやり方に倣った。
669年、テオドルスがカンタベリー大司教になると、チャドの叙階は正規でなかったという異議が出された。その理由は、すでにウィルフリッドが後任に定まっていたことや、叙階にあずかった司教の二人がブリトン教会に属し、復活祭の日取りが教会の定めと異なっていたことにあると考えられている。テオドルスから叙階が正しくなかったと告げられたチャドは、大司教がそう考えるなら、自分にふさわしいと思ったことのない職を退くと素直に答えた。テオドルスはその謙遜に心を打たれ、司教を辞する必要はないと述べた。しかしチャドはラスティンガムに退き、ウィルフリッドがヨークの司教座に就いた。
この年にマーシア人の司教ジャルマンが亡くなり、マーシア王ウルフヘレが後任を求めた。テオドルスはチャドをマーシアとリンジーの司教に正式に叙任した。テオドルスは、徒歩の旅を好むチャドが遠方の地へ向かうのに強く抗議したのを、自らの手で馬に乗せて説得したという。チャドは司教座をリッチフィールドに定め、聖マリア教会のそばに自分と七、八人の修道士の住まいを建てた。ウルフヘレ王は、リンジーの修道院を建てる土地として、50世帯分の土地を贈った。場所はリンカンシャーのバートンまたはバロウと推定されている。チャドはリッチフィールドで没した。歴史家ベーダは、埋葬された聖マリア教会と、のちに同じ場所に建てられた聖ペテロ教会で、病気の治る奇跡がしばしば起きたと伝えている。遺骨はリッチフィールド大聖堂に保たれていたが、修道院解散の時期を経て、現在はバーミンガムのカトリック大聖堂にある。
同じ年に亡くなった人物
- レケスウィント (672年没)
- チェンワルフ (ウェセックス王) (672年)
- マイムーナ・ビント・アル=ハーリス (672年)
- 天智天皇 (672年没)
- 弘文天皇 (672年没)
同じ地域に関係する人物
- ロバート・ケイツビー (1605年没)
- エセルフリーダ (918年没)
- スタンリー・マシューズ (2000年没)
- レオフリク (1057年没)
- Peter Broadbent (2013年没)