伝記
サー・スタンリー・マシューズは、1915年2月1日にイングランドのストーク=オン=トレントで生まれ、2000年2月23日に亡くなったサッカー選手である。ポジションは右ウイングのフォワードで、「ドリブルの魔術師」の異名をとり、イングランド・サッカー史上に残る名選手とされる。得意としたフェイントは「マシューズ」と呼ばれ、現在もドリブルの基本技の一つとして受け継がれている。
地元のボクサーで、「ハンリーの闘う床屋」として知られたジャックの、4人兄弟の3番目として生まれた。6歳だった1921年の夏、父に連れられて地元クラブ、ストーク・シティの競技場で開かれた14歳未満の少年の競走に出て、年齢に応じたハンデを付けて走り、勝ったという。家では裏庭に置いた台所の椅子を相手に、数え切れないほどの時間ドリブルの練習をした。父は息子をボクサーにしたがったが、13歳のとき本人はサッカー選手になると決め、母エリザベスが父を説得した。1929年にはイングランドの学童代表としてウェールズ戦に出場している。15歳の誕生日にストーク・シティの事務見習いとして週1ポンドで迎えられ、17歳の誕生日に当たる1932年にプロ契約を結んだ。1932年3月にはビュリー戦で一軍に初出場している。
1934年9月29日のウェールズ戦でイングランド代表デビューを果たした。1939年に第二次世界大戦の影響でリーグ戦が中止されると、キャリアは中断し、大戦中はイギリス空軍の訓練士官として軍務に服した。リーグ戦が再開された翌年の1947年にブラックプールへ移り、1948年に創設されたFWA年間最優秀選手賞の第1回受賞者となった。この賞は、2部リーグで一度優勝に貢献した程度だったマシューズのために、新聞記者たちが作ったとも言われる。1953年5月3日のFAカップ決勝のボルトン戦では、終盤の大逆転勝利の立役者となり、この試合は「マシューズ・ファイナル」と呼ばれて、FAカップ史上最も劇的な試合の一つとされている。
喫煙と飲酒を控え、菜食を心がけ、毎朝6時に起きるなど徹底した体調管理により、17歳のプロ入りから50歳まで一線で戦った。33年間の現役生活で一度も警告を受けなかったという、フェアプレーの選手でもあった。1956年には最初のバロンドール(欧州年間最優秀選手)を受賞し、1965年にはサッカー選手として初めてナイトの称号「サー」を授かった。現役中にこの栄誉を受けたのは、2013年の時点でもマシューズだけである。
1961年、46歳で当時2部のストーク・シティに戻った。英雄の復帰により、1万人を割っていた観客数は3万5000人を超えるようになった。1年後の1962-63年シーズンには1部に昇格し、同シーズンにはFWA年間最優秀選手賞を15年ぶり2度目に受けた。1965年2月6日のフラム戦を最後に引退したが、50歳での出場は1部リーグの最年長記録である。代表では54試合に出場して11得点を挙げ、1950年と1954年のワールドカップに出場した。引退後はポート・ヴェールのゼネラル・マネージャーを務めたのち、世界各地でアマチュアの指導にあたり、1975年には南アフリカのソウェトで黒人だけのチームをつくった。ペレは「全サッカー選手の模範」、ベッケンバウアーは「誰にも止められない男」と評した。ストーク・シティの本拠地ブリタニア・スタジアムの傍らには、銅像が建てられている。
同じ年に亡くなった人物
- ペテル・ドゥボフスキー (2000年没)
- Roberto Capparelli (2000年没)
- ジョン・ハーサニ (2000年没)
- スヴェトザル・ヴクマノヴィッチ・テンポ (2000年没)
- Ramon Astudillo (2000年没)
同じ地域に関係する人物
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- George Newberry (1978年没)
- レティス・ノウルズ (1634年没)
- Ronnie Allen (2001年没)
- ロバート・ケイツビー (1605年没)