伝記
弘文天皇は、648年に生まれ、672年8月21日に没した人物で、日本の第39代天皇とされる。諱は大友または伊賀で、一般には大友皇子の名で知られる。1870年(明治3年)に弘文天皇の諡号を贈られて歴代天皇に加えられたが、実際に大王として即位したかどうかは定かではない。天智天皇の第一皇子で、母は伊賀の采女であった宅子娘である。
大友の名は、大友村主が養育したことに由来すると考えられている。母は天智天皇の十一人の妻のなかで最も身分が低く、出身地の伊賀が最初の名の由来だったが、この名は見栄えのしないものとされ、のちに改められたという。皇子は天武天皇の皇女である十市皇女を正妃とし、二人のあいだに葛野王が生まれた。藤原鎌足の娘である耳面刀自も妃となった。子孫には淡海三船や大友氏の祖とされる与多王が連なり、一条天皇以降の天皇は、葛野王から続く系譜を通じて弘文天皇の血を引くと伝えられる。
父の中大兄皇子は668年に天智天皇として即位し、671年に大友皇子を太政大臣に任じて政務を補佐させた。この官は、のちには国家の最高位となるが、当時はまだそれほど高い意味を持たず、皇子が後継者となることを示していた可能性がある。『日本書紀』は、天智天皇が弟の大海人皇子を東宮に任じていたのに、わが子可愛さから約束を破って大友皇子を皇太子に定めたと記す。ただし『日本書紀』は大海人皇子の子である舎人親王が編纂したもので、父の正統性を高める意図があったと考えられている。同じ年に定められた冠位の制は、一般には大海人皇子の事績とされるが、『日本書紀』の異伝には大友皇子の事績とするものもある。一方、『懐風藻』や『万葉集』は、天智天皇が大友皇子を立太子したとする。皇位には皇后の倭姫王を立て、自らは皇太子として称制したとする説もある。同年11月には、左大臣の蘇我赤兄、右大臣の中臣金ら五人の高官とともに、天皇の詔を守ることを織物の仏の前で誓ったと『日本書紀』にある。天智天皇が病に伏すと、大海人皇子は皇位を辞退して出家し、吉野へ向かった。
天智天皇は671年12月3日(672年1月7日)に世を去った。近江朝廷は大友皇子を後継者と認めたが、即位したかどうかは明らかでない。在位は約半年と短く、即位にかかわる儀式を行うこともできなかったため、長く歴代天皇とはみなされなかった。大海人皇子は身の危険を恐れて東国で兵を集め、672年の壬申の乱が始まった。約一か月で近江側の軍は破れ、大友皇子は山中に逃れて首を吊って自害したと伝えられる。重臣の物部麻呂に裏切られたのだともいわれる。大海人皇子は即位して天武天皇となり、都を飛鳥に戻した。
その後、乱に敗れた皇子が妃や臣下とともにひそかに落ち延びたという伝説が各地に生まれた。千葉県君津市には、皇子が暮らした小川御所の跡とされる白山神社があり、背後の古墳は皇子の墓と伝えられる。天武天皇の追手に見つかって割腹した場所とされる御腹川もある。千葉県市原市の飯給には、村人が皇子の一行に食事を差し上げたという伝承があり、地名の由来とされる。愛知県岡崎市にも、皇子ゆかりとされる神社や寺が残る。公式には、陵は滋賀県大津市の長等山前陵とされ、このほかにも御陵とされる墳墓が各地に伝わる。751年の序文を持つ現存最古の漢詩集『懐風藻』には、「淡海朝皇太子」として2首の詩が収められている。皇居の皇霊殿でも、他の歴代天皇や皇族とともにその霊が祀られている。
同じ年に亡くなった人物
- メルシアのチャド (672年没)
- マイムーナ・ビント・アル=ハーリス (672年)
- ウィタリアヌス (ローマ教皇) (672年没)
- 天智天皇 (672年没)
- レケスウィント (672年没)
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