HISTORICAL PERSON · 672年没

天智天皇

皇子時代は中大兄皇子と称し、中臣鎌足と乙巳の変で蘇我入鹿を討ち、大化の改新を推進した。漏刻(水時計)の設置も進め、即位後は初の全国的戸籍である庚午年籍を作らせた第38代天皇。

生涯
672年没
死亡地
日本(滋賀県 / 近江大津宮)
出生地
—
出典
世界地図
日本(滋賀県)

伝記

天智天皇は、626年(推古天皇34年)に生まれ、672年1月7日(天智天皇10年12月3日)に没した日本の第38代天皇である。幼名は葛城皇子、皇子時代の名は中大兄皇子で、こちらの名でも知られる。父は舒明天皇、母は皇極天皇(のち重祚して斉明天皇)で、同母の妹に間人皇女、同母の弟に大海人皇子(のちの天武天皇)がいる。母の皇太子だったころ、中臣鎌足らとともに蘇我入鹿を殺害し、大化の改新を進めた。のちに初の全国的な戸籍である庚午年籍を作らせるなど、律令国家への足固めを行った。

643年に蘇我蝦夷・入鹿の父子が山背大兄王ら上宮王家を滅ぼすと、危機感を抱いた鎌足が中大兄皇子に近づいた。二人の縁は、蹴鞠の会で脱げた皇子の靴を鎌足が拾って捧げたことに始まるとされる。645年6月12日(7月10日)、皇子らは飛鳥板蓋宮で入鹿を斬殺し、翌日には蝦夷が自害した。皇極天皇は譲位を決意し、叔父の軽皇子が孝徳天皇となった。皇子は皇太子として政権の中枢を担い、元号の大化や改新の詔が定められたとされるが、改革の実態には議論が多く、近年は孝徳天皇自身が主導したという見解も有力である。この間、異母兄の古人大兄皇子は謀叛の疑いで討たれ、649年には右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が讒言により自害に追い込まれた。のちに無実とわかり、皇子は嘆き悲しんだという。653年、皇子は飛鳥への還都を主張し、母や妹、弟、多くの官人を連れて飛鳥河辺行宮に移った。翌年、孝徳天皇は病没した。

母が斉明天皇として重祚した後も、皇子は皇太子として政務を担った。658年には孝徳天皇の遺児の有間皇子が謀叛の疑いで絞め殺されたが、この事件は皇子の謀略だったと考えられている。660年には漏刻(水時計)を作ったとされる。百済が滅ぼされると、その復興を助けるため、661年に斉明天皇らとともに西へ向かったが、斉明天皇は朝倉橘宮で崩御した。皇子は即位せずに称制を行い、百済の王子豊璋を送り返して救援を続けた。しかし663年の白村江の戦いで倭と百済の連合軍は大敗した。戦後は亡命百済人を受け入れ、防人や烽を置き、水城や大野城、基肄城を築かせて、防衛網を整えた。

667年に近江大津宮へ遷都し、668年1月3日(2月20日)にようやく即位した。669年には遣唐使を派遣し、病床の鎌足を見舞って大織冠と内大臣の位、藤原の姓を与えた。670年に庚午年籍の作成を命じ、671年には大友皇子を太政大臣とする人事を定めた。同年、大津宮の新台に漏刻を置いて鐘鼓を打ち、時報を始めたとされ、その日付に当たる6月10日は時の記念日として知られる。皇后は異母兄古人大兄皇子の娘の倭姫王だが、二人のあいだに子はなかった。大友皇子の側近は少なく、これは鎌足ら少数の腹心と専制的に政治を進めた結果、頼れる藩屏が減っていたためとされる。

671年、天皇は病に伏し、10月に弟の大海人皇子を呼んで後事を託そうとしたが、大海人皇子は皇位を辞退し、大友皇子を立てるよう述べて出家し、吉野へ向かった。同年12月3日、天智天皇は大津宮で崩御した。宝算は46であった。天皇は大友皇子に皇位を継がせたかったとされるが、翌年の壬申の乱で大海人皇子が勝って天武天皇となり、以降は天武の系統が続いた。称徳天皇の没後、天智の孫の白壁王が光仁天皇として即位し、その後は現在に至るまで、天智天皇の男系子孫によって皇位が継承されている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物