HISTORICAL PERSON · 紀元前460没

パラシオス

エフェソス出身でアテナイに定住した古代ギリシアの画家。影付けが広まる時代に線描を貫き、体積の表現を革新して後世の図像の手本を残した。ゼウクシスと写実を競った逸話でも知られ、絵画の立法者と評された。

生涯
紀元前460没
死亡地
—
出生地
大セルジューク朝(イズミル県 / エフェソス)
出典
世界地図
大セルジューク朝(イズミル県)

伝記

パラシオスは、古代ギリシアの著名な画家である。エペソスの出身とされ、画家エウエノルの子として生まれ、のちにアテナイに定住した。紀元前440年から380年ごろに活動したともいい、父の弟子でもあったと大プリニウスは記している。アテナイでは市民となり、長く暮らして、裕福で称賛される画家だったとされる。彼自身が詩句の中で名乗っていたとも伝えられる。

活動の時期は、クセノフォンが記録した逸話によって定められる。クセノフォンは、パラシオスとソクラテスが芸術について交わした対話を書き残した。このため、パラシオスは紀元前399年より前にすでに名高い画家だったと考えられている。大プリニウスは彼の盛期を第95オリュンピア紀(紀元前400〜396年)に置き、ゼウクシスの同時代人としている。死去は紀元前388年ごろとされる。ゼウクシスとともにイオニア派の画家とされるが、アッティカの芸術家に数えてもよいという。贅沢を好んだ風変わりな人物として古代から知られ、紫に染めた衣服、金の冠、金で巻いた杖、金の紐のついたサンダルを身に着けたといわれる。

当時、ほかの画家たちが陰影を使って写実的な場面を描き始めていたなかで、パラシオスは古い線描の技法にとどまり、その方法で量感を表す新しいやり方を編み出した。ゼウクシスとの競い合いの話は、大プリニウスの『博物誌』にある。ゼウクシスは陰影法(スキアグラフィア)による迫真の描写で名高かった。課題は最も写実的な絵を描くことで、ゼウクシスの描いたぶどうは鳥が舞い降りてついばもうとしたほどだった。勝ちを確信した彼がパラシオスの工房を訪れると、パラシオスは絵を覆うカーテンを取るよう促した。ゼウクシスが手をかけて、それが絵に描かれたカーテンだと気づいた。彼は、自分は鳥を欺いたがパラシオスは画家である自分を欺いたと認め、敗北を受け入れた。これは「だまし絵」の最も早い例の一つとされる。なお、シキュオンのティマンテスとは、アキレウスの武具をめぐるオデュッセウスとアイアスの争いを描いて競い、敗れたともいわれる。

作品には、フェイディアスのアテナ・プロマコスの盾の図案があり、これは金属細工師ミュスが金属に仕上げたという。ほかに擬人像「アテナイの民(デモス)」が名高い。民の十二の特徴が、一見矛盾しながらも一つの像に表されていたとされるが、この話は警句に基づくらしい。ヘルメスの姿をした自画像も挙げられ、不敬の非難を避けるために偽名で署名したという。ローマのカピトリウムを飾ったテセウスの絵や、ホメロスの物語に関わる場面、神話の群像画が主なものである。余暇に楽しんだとされる猥褻な主題の作品もあった。セネカは、ピリッポスが奴隷として売ったオリュントス人を買い、拷問して、パルテノン神殿のための縛られたプロメテウスの絵のモデルにしたと語る。しかしこれは年代的にありえない話とされる。

後世の美術批評家たちは、彼を画家の第一級に位置づけた。クインティリアヌスは彼を絵画の「立法者」と呼び、多くの神々や英雄の決定的な型を後の画家に示したと述べた。輪郭線の巧みな描写はとくに称賛され、板や羊皮紙に描かれた素描の多くは、後の画家たちが研究のために大切にした。量感の表現に優れており、「グループR」の画家たちによる白地の壺絵や、紀元前4世紀のポテイダイアのマケドニア墓の大理石の寝台に描かれた絵に、その様式の反映を見る研究者もいる。オーストラリアのトカゲの一種の学名にも、彼の名が残されている。

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