HISTORICAL PERSON · 639年没

ファドル・イブン・アッバース

ムハンマドのいとこで教友、有力なハーシム家の一員。630年のフナインの戦いで踏みとどまった一人で、ムハンマドの最期にはアリーとともに支えた。のちレヴァントなどの征服に加わり、639年に疫病で没した。

生涯
639年没
死亡地
—
出生地
サウジアラビア王国(マッカ州 / メッカ)
出典
世界地図
サウジアラビア王国(マッカ州)

伝記

ファドル・イブン・アッバースは、預言者ムハンマドの従兄弟であり教友の一人である。614年ごろに生まれ、639年に没したとされる。メッカのハーシム家の有力な一員で、ラシドゥーン軍の指揮官としてレヴァントや北アフリカの初期の征服に加わった。

父は、ムハンマドの叔父でメッカの富裕な商人だったアッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ、母はムハンマドの妻マイムーナの姉妹ルバーバ・ビント・アルハーリスである。アッバース家の長男にあたる。630年のフナインの戦いでは、軍が総崩れになるなかでムハンマドのそばを離れず踏みとどまった者の一人に数えられ、その後、一家はメディナへ移った。弟のアブドゥッラーによれば、ファドルはたいへん美貌の青年だったという。632年3月の別れの巡礼では、ムハンマドのラクダの後ろに同乗した。このことから「神の使徒の後ろに乗る者」という呼び名で知られるようになったとされる。巡礼のさなか、若く独身だったファドルが別のラクダに乗る美しい娘にじっと見入ってしまい、ムハンマドが手で三度も彼の顔をそらせたという話が伝わる。ムハンマドはこのとき、若い男と若い女をサタンに任せることはできないという趣旨の言葉を述べたとされる。

また、父の勧めでムハンマドに喜捨の徴収役への任命を願い出たところ、ムハンマドは、喜捨は財産の汚れであり、自分の一族にその役を任せるのは適当でないとして断り、代わりにサフィーヤという女性と結婚させて、自ら婚資も定めたという。二人のあいだには娘ウンム・クルスームが一人だけ生まれた。この娘は最初ハサン・イブン・アリーに嫁ぎ、別れたのちアブー・ムーサー・アルアシュアリーと再婚したとされる。アーミル系キラーブ族のアムラという女性とも結婚したが、数か月で離婚に終わった。ムハンマドの最期の病のとき、ファドルはアリーとともにその体を支えてアーイシャの家へ歩かせ、死去の際にはそばにいて遺体を洗う水を注ぎ、墓にも入って埋葬を手伝った。

ムハンマドの死後はシリア遠征の軍に加わり、ビザンツやペルシアとの多くの戦いに参加した。アブー・ウバイダがモアブ一帯を平定したのち、ズバイル・イブン・アウワームとともにアンマンの攻略に派遣された。ワーキディーの記録では、橋の上で行われた戦いで二人は馬上で奮戦し、それぞれ千騎に匹敵する働きをしたと語られる。ビザンツ兵は恐れて逃げ、ズバイルが敵の指揮官を討って町は降ったとされる。のちにバルカ(キレナイカ)を約三年包囲しても落とせずにいたとき、ハーリド・イブン・アルワリードが綿袋を詰めた投石機で精鋭を城壁の上へ撃ち出す策を示し、ファドルもその一人に選ばれたと伝えられる。

死については伝承が分かれる。アムワースの疫病で、18年(639年)にシリアで亡くなり、年齢は約25歳だったとも、ヨルダン付近で没しラムラの古い墓地に葬られたともいわれる。アジュナーダインの戦いに参加したとも、ヤルムークで殉教したとも伝わり、そのときの年齢は22歳とされる。若くして世を去ったため大きな教師としては知られなかったが、ムハンマドから24のハディースを伝え、弟のアブドゥッラーやアブー・フライラらがファドルから伝えた。その伝承は六書をはじめとする古典的なハディース集に収められている。シーア派では、アブー・バクルへの忠誠の誓いを拒んだとして高く評価されている。

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