伝記
ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリーは、1936年9月3日に生まれ、2019年9月19日に没したチュニジアの政治家、軍人である。階級は大将。1987年から23年以上にわたり同国の第2代大統領を務めたが、2011年のジャスミン革命でサウジアラビアへ亡命し、政権は事実上崩壊した。日本語ではジン・アビディン・ベンアリとも表記され、1996年7月に来日している。
ハンマーム・スーサの出身で、男子6人、女子5人の大家族で育った。スーサの中学校で学び、上級生になると独立運動に加わり、青年組織に入って社会主義ドゥストゥール党の支部間の連絡係を務めた。数回逮捕され、刑務所に入れられて尋問も受けたという。中等教育は退学処分となって修了しなかったとされる。独立後は国軍の中核を担う若手将校の一人に選ばれ、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学した。さらにフランスの砲兵学校、アメリカの情報・保安学校や防空学校でも学んだ。
1958年からチュニジア軍参謀本部に勤務し、軍歴の最後は軍事保安局長だった。1974年に駐モロッコ駐在武官となり、1977年に帰国して国防相官房長、同年12月に国家保安局長官を拝命した。1980年4月には駐ワルシャワ大使となり、1984年1月に国家保安局長官に再任され、同年11月に国家安全保障問題担当国家書記となった。1986年4月28日に内務大臣に就任し、同年6月には与党社会主義憲政党の政治局員と副書記長に選ばれた。1987年中盤の内閣改造で、ハビーブ・ブルギーバ大統領は首相兼内務大臣に指名し、事実上の後継者とした。
1987年11月7日、ブルギーバが退任させられ、ベン・アリーが大統領に就いた。大統領の医師団が職務不能とする報告を出し、憲法の規定に従って継承したと説明されたが、これを「医療クーデター」と呼ぶ見方もある。最初の演説で、信頼、安全、平穏のもとでの新体制への協力を国民に呼びかけ、責任ある民主主義と国民主権の尊重を表明した。これは「11月7日宣言」と呼ばれ、改革の始まりとされる。政治犯全員を釈放し、国家保安事件裁判所を廃止し、1988年7月にはアラブ諸国で初めて拷問等禁止条約を批准した。与党は立憲民主連合に改称され、社会の民主化、多元主義の尊重、法治国家の建設を宣言した。1989年の大統領選挙で再選され、以後も再選を重ね、2009年10月25日の選挙では89.62パーセントの票を得て5選された。一方で権威主義と腐敗を伴う体制だったとの評があり、経済自由主義による安定的な成長と投資促進の面では、国の発展に寄与したとも評される。
2010年末ごろから高い失業率や物価の高騰を背景にデモが広がり、2011年1月13日に次期大統領選への不出馬を、翌日には総選挙の前倒しを表明したが収まらず、同日中に妻のレイラや子供たちとともにサウジアラビアへ脱出した。その後、チュニジアで公金横領や麻薬・武器の不法所持など多数の容疑で起訴され、2011年6月20日の欠席裁判で禁錮35年の判決を受けた。デモ鎮圧に関わる件では終身刑が言い渡されたが、判決の時期は2012年6月とも2013年4月ともいわれる。いずれの刑も服役することなく、2019年9月19日、亡命先のジッダで83歳で死去した。革命後の政権は不安定で、のちに強権的なサイード政権の台頭を招いたとも指摘される。独立勲章と共和国勲章を受章している。
同じ年に亡くなった人物
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- ヘンリー・シー (2019年没)
- ディミトリス・フリストフィアス (2019年没)
- アルフレード・ペレス・ルバルカバ (2019年没)
- ジョン・ボーグル (2019年没)
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- アブドゥッラー・ブン・アッバース (688年没)