伝記
アブドゥッラー・イブン・アッズバイルは、イスラーム初期のカリフの一人で、683年にウマイヤ朝の統治に異議を唱えてメッカでカリフを称し、692年に戦死するまで、ダマスクスのウマイヤ朝と並び立つ政権を率いた。624年、預言者ムハンマドの一族の血を引くクライシュ族の名門にメディナで生まれた。ただし当時のウマイヤ朝のカリフは別に存在しており、正当なカリフと見なされることは稀である。
父は預言者の教友の一人ズバイル・イブン・アウワーム、母は初代正統カリフ、アブー・バクルの娘アスマーで、預言者の妻アーイシャは母の姉妹にあたる。ムハージルーン(メッカからメディナへ移った最初期の改宗者)の間に生まれた最初の子だったと、史家らは伝えている。ムハンマドの近親の血筋というカリフの条件を満たしていたため、最も有力なカリフ位の継承候補と見られていた。若いころから戦場に出て、636年のヤルムークの戦いに、幼いながら父とともに居合わせたかもしれないとされ、647年には北アフリカ遠征で頭角を現し、ビザンツの貴族グレゴリオスを討ったと伝えられる。650年にはイラン北部の遠征にも加わり、第3代カリフのウスマーンからコーランの校訂に当たる委員会に任じられた。656年、反乱軍にウスマーンの家が包囲されると、その防衛を任されて負傷したという。ウスマーン暗殺後、ラクダの戦いで父とアーイシャとともにアリーの側と戦った。この戦いで父は戦死し、彼自身も傷を負った。
その後はメッカに身を置き、ヤズィード1世の世襲に反対する勢力を集めた。683年にヤズィードが死ぬと、ムアーウィヤ2世の即位を認めずにメッカでカリフを宣言し、これが第二次内乱の始まりになった。カルバラーでフサインが殺されたことも背景にあったとされる。ヤズィードの子はまもなく亡くなり、ウマイヤ朝の権威は各地で崩れた。ウマイヤ家に不満をもつシリア、イラク、エジプトなどの人々が忠誠を誓い、二人のカリフが並立する状態になった。685年にはシリアとエジプトでウマイヤ朝が立て直され、イラクなどでは彼の権威がアリー派やハワーリジュ派の勢力に脅かされた。686年にはバスラ総督に弟のムスアブを任じたが、二人の間には隔たりが生まれ、彼はムスアブを罷免して子のハムザを据えた。ハムザはバスラで暴政をふるい、市民の要求もあって、再びムスアブが総督となった。一時はイラクとエジプトを制し、シリアの半分以上まで及ぶ勢力を得て、ウマイヤ朝を圧倒するほどだった。しかしメッカを離れず、人口の多い属州の統治は弟らに任せきりで、自身の権威は多くの地域で名目的だったといわれる。
やがてアブド・アルマリクのもとで反攻に転じたウマイヤ朝に領地を取り返され、最後はメッカ周辺のみとなった。ムスアブも691年に敗れて戦死した。アブド・アルマリクは司令官ハッジャージュ・ブン・ユースフに軍を預けてメッカを包囲させ、弩弓による投石でカーバ神殿などを攻撃した。守備隊は苦戦して壊滅し、カーバも大きな被害を受けた。692年、6か月に及ぶ包囲の末、降伏を拒んで出撃し、戦死した。日本の歴史家、蔀勇造は、その行動をアラビアがイスラーム世界の中心の地位を取り戻そうとした復古運動だったと見ている。
同じ年に亡くなった人物
- パスカリス (対立教皇) (692年)
- 阿史那骨咄禄 (692年(推定))
- アスマー・ビント・アビー・バクル (692年没)
同じ地域に関係する人物
- 馬歩芳 (1975年没)
- イスラームにおけるイスマーイール (紀元前1800)
- アブー=ターリブ (619年没)
- アスマー・ビント・アビー・バクル (692年没)
- Abd-Allah ibn Umm-Maktum (636年没)