伝記
蕭何は、紀元前257年とも推定される生まれから紀元前193年8月16日に没するまで、秦末から前漢初期に活躍した政治家である。酇侯に封じられ、諡号は文終侯という。劉邦の天下統一を助けた漢の三傑(蕭何・張良・韓信)の一人で、前漢建国の十八功侯にも数えられる。
劉邦と同じ泗水郡沛県豊邑の出身で、若いころから役人をしていた。下役人ながら仕事ぶりは真面目で能率がよく、評価されていたという。沛県に豪族の呂公が移ってきた際、県令は歓迎の宴の接待をすべて蕭何に任せた。持参した額が千銭以下の者は地面に座らせようと考えていたところへ、劉邦が「一万銭」と言って現れた。蕭何は、劉邦は大ぼら吹きで成し遂げたことは少ないと取りなしたが、人相を高く評価した呂公は構わず歓待した。
秦末の動乱が始まると、蕭何は曹参らとともに、秦の役人である県令には誰も従わないから劉邦を旗頭に反乱に加わるべきだと進言した。県令は考えを変えて劉邦を城に入れなかったため、沛県城でクーデターを起こして県令を殺し、劉邦を後任の県令に迎えた。以後は劉邦陣営の内部の事務を一手に引き受け、各地を転戦する軍の糧秣を絶やさず、兵が略奪に走らないようにした。劉邦が咸陽を占領すると、他の者が宝物殿に殺到するなかで、ただ一人、秦の歴史書、法律、各国の人口記録、地理書などを収めた文書殿へ走り、項羽が破壊する前に機密文書をすべて持ち帰った。これにより陣営は、要害の地や人口、地域の強弱、人民の困苦などの情報を得て、楚漢戦争や漢王朝の基礎づくりに大いに役立った。紀元前206年、劉邦が僻地の漢に封じられて不満が噴き出すと、今項羽と戦えば必ず負けるから、漢で力を蓄えて機会をうかがうべきだと進言した。劉邦が漢王になると丞相に任じられた。
夏侯嬰が推挙した韓信を、蕭何も劉邦に推した。閑職を与えられた韓信が逃げ出すと、自ら追いかけ、「今度推挙して駄目なら私も漢を捨てる」とまで言って説得し、大将軍に就けるよう劉邦に勧めた。劉邦はこれを受け入れた。楚漢戦争が激しくなり劉邦が関中を空けると、蕭何は王太子の劉盈を補佐して留守を守った。関中から戦地へ食糧と兵士を途絶えず送りながら民衆を苦しめず、名丞相と称えられた。紀元前202年に戦いが終わると、戦功第一に選ばれたのは、戦場で戦った将軍たちではなく蕭何だった。不満を漏らす諸将に、劉邦は、諸君の功績は狩猟の犬のようなもので、蕭何は猟犬を放つ主のようなものだと述べた。劉邦は、蕭何の確保した情報と送り続けた兵糧や兵士、安定した根拠地がなければ勝てなかったと理解していたのである。
前漢が成立すると、蕭何は酇侯に封じられ、引き続き丞相として戦乱で荒れた国土の復興に当たった。紀元前196年には、呂后から韓信の謀反の企てを知らされ、策を用いて韓信を誘い出して討った。この功により、臣下で最高位の相国に任じられ、「剣履上殿」「入朝不趨」「謁賛不名」などの特権を与えられた。しかし劉邦は猜疑心を強め、元勲たちの反乱もあって蕭何を疑い始めた。長く関中を守り、民衆の信望も厚かったことも、危険視される理由となった。蕭何は部下の助言に従い、わざと田畑を買い漁るなどして評判を落とし、財産を国庫に寄付し、一時投獄されながらも粛清を免れた。劉邦の死の2年後に亡くなり、後継には曹参を指名した。子の蕭禄が侯を継ぎ、家系は何度も断絶しながら、皇帝の命でそのたびに子孫が見つけ出されて再興された。司馬遷は、その勲功は光り輝き、名声は後世まで流れたと評している。