HISTORICAL PERSON · 604年没

グレゴリウス1世 (ローマ教皇)

590年に教皇に選ばれ、典礼の整備と教会改革を進めた。カンタベリーのアウグスティヌスをイングランド宣教に派遣し、教皇の権威を高めた。四大ラテン教父の一人で、グレゴリオ聖歌の名は彼に由来する。

生涯
604年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

グレゴリウス1世は、6世紀末から7世紀初めにかけて在位したローマ教皇である。540年ごろ、ローマの裕福な貴族の家に生まれた。父ゴルディアヌスは元老院議員や首都長官を務めた人物で、教会では「地区担当官」の役を負っていたが、その職務の内容はほとんど分かっていない。母シルウィアの姉妹は聖人として崇敬される。高祖父にあたるフェリクス3世も教皇であり、東ゴート王テオドリックが推した人物だった。一家はカエリウスの丘に邸宅を構え、シチリアやローマ近郊に農地も持っていたとされる。夫妻にはもう一人息子がいたが、その名は伝わっていない。中世の著述家は、グレゴリウスというギリシア語起源の名を「目覚めている者」を意味すると解し、その生涯に重ねて語った。

幼いころのイタリアは動乱の時代だった。542年から「ユスティニアヌスの疫病」が広がって飢饉と恐慌を招き、地域によっては住民の三分の一が死んだともいう。ユスティニアヌス1世がゴート人からイタリアを取り戻す戦いも続き、546年にはトティラがローマを略奪して人口を激減させた。一家はこの間、シチリアの領地に避難していたと推測される。戦争は552年にローマで終わり、554年にはフランク族の侵入も退けられて、平和が訪れた。グレゴリウスは貴族の子として文法、修辞学、古典、文学、法学を修めてあらゆる科目で抜きん出ており、トゥールのグレゴリウスは「文法・弁証法・修辞学において並ぶ者がなかった」と伝えている。ラテン語は正しく書けたが、ギリシア語は読み書きできなかったという。こうした教養は、公職に就く準備にもなっただろうとされる。実際に政治家としての経歴を積んだが、思うところがあって修道院に入った。教皇になる前に修道士だった最初の教皇とされる。

590年9月3日に教皇に選ばれると、皇帝マウリキウスはこれを追認した。グレゴリウスは皇帝が教皇の任命に関わることに疑問を持たず、皇帝権力が神に由来することを認めて、教会と国家の協働を説いた。一方で教皇ゲラシウス1世の両剣論を根拠に、宗教上の裁治権は教皇にあると主張している。彼は教会改革に力を注ぎ、三章問題の解決を図り、カンタベリーのアウグスティヌスをイングランド宣教に派遣した。ゲルマン系の部族国家が並び立ち、その一部は異端のアリウス派を信じるなかで、教会が国ごとに分断されないよう教皇の優位が必要だと考え、部族の君主たちにはその権力を認める代わりに、キリスト教秩序への参加を求めた。それまで各国の王は法を作る権威を持たず慣習に従っていたが、キリスト教はこの慣習を変えていったという。彼は教皇と教会を同一視する考え方に先鞭をつけたともいわれる。ローマ司教の域を出なかった教皇職の権威は、彼のもとで東西を問わず高まった。

聖ベネディクトゥスの伝記を含む多くの著作と、教皇として出した多数の書簡が残る。東方正教会で大斎中の平日に用いられる先備聖体礼儀の祈祷文も、彼の編纂と伝えられる。グレゴリオ聖歌の名は彼に由来し、伝承では自ら多くの聖歌を作曲したという。604年3月12日に世を去り、死後まもなく民衆の声によって聖人とされた。カトリックでは教会博士で、四大ラテン教父の一人に数えられる。カルヴァンは彼を「最後の良き教皇」と評したという。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物