HISTORICAL PERSON · 774年没

不空金剛

唐の高僧・訳経僧で、金剛智・善無畏がもたらした密教を唐に定着させた。金剛智に学び、741年にセイロンやインドへ渡って経典を求め、110部143巻を漢訳して四大訳経家の一人とされる。真言八祖の一人。

生涯
774年没
死亡地
金(陝西省 / 長安)
出生地
ウズベキスタン共和国(サマルカンド)
出典
世界地図
金(陝西省)

伝記

不空金剛(アモーガヴァジュラ)は、唐の高僧であり、訳経僧である。金剛智と善無畏によってもたらされた密教を唐に定着させた。真言宗では三蔵法師の一人であることから「不空三蔵」と尊称され、真言八祖のうち、付法の八祖では第六祖、伝持の八祖では第四祖とされる。弟子には含光、慧超、恵果、慧朗、元皎、覚超がいる。

神龍元年(705年)に生まれた。出生地はインド南部、サマルカンド、唐の涼州などの説があり、スリランカ生まれとする説もある。父はインド北部出身のバラモン、母はソグド系の人だったとされ、父の死後、10歳で中国へ来たともいう。開元2年(714年)、長安で金剛智に師事して密教を学んだ。724年には広福寺で出家し、語学の才を金剛智に認められて翻訳を手伝った。

開元29年(741年)に金剛智が入寂すると、師の遺言に従い、『金剛頂経』の完本を求めて、弟子たちとともに広州から船出した。勅命により『大日経』などの密教経典を求める任も帯び、インドネシアを経てセイロン、インド南部に渡り、龍智阿闍梨のもとで胎蔵・金剛両部にわたる五部灌頂を伝授されたとされる。天宝5年(746年)、五百巻ほどの経典を携えて長安に帰った。のち玄宗に灌頂を授け、雨乞いの修法が効験を示したことで智蔵の称号と紫衣を授かった。749年には故郷への帰国を願ったが、途中の韶州で病に倒れて断念したという。

753年、西域の防衛にあたっていた突厥系の将軍・哥舒翰は、軍の加護を望んで不空を武威の開元寺に招いた。翌754年には『金剛頂経』の前半部分を訳している。天宝14年(755年)に安禄山の乱が起こると、不空は精力的に教化活動を行った。安禄山が洛陽を支配すると、勅命により長安に帰り、大興善寺に住して灌頂の壇を築き、調伏の修法を行って、唐朝の帰依を集めた。一時は反乱軍に捕らえられ、757年に官軍に救出されたともいわれる。758年には新帝の粛宗に翻訳事業の再開を願い出た。『仁王経』にもとづく修法で、長安を脅かした吐蕃とウイグルの軍勢を退けたともいわれ、その軍は将軍の死後に散ったと伝えられる。765年には鴻臚寺の長官となった。粛宗、代宗の二代にわたって王朝の守護を求められ、代宗に国を文殊菩薩の守護に委ねるよう説いた。766年には、文殊菩薩を祀る五台山で金閣寺の建立が始まった。

不空は110部143巻もの経典を漢訳し、鳩摩羅什、真諦、玄奘とともに四大訳経家と呼ばれる。真言宗の重要経典である『理趣経』や、宿曜道の拠りどころとなる『宿曜経』も、不空が翻訳したものとされる。771年には、訳した経典を目録とともに代宗に献上し、すべてを大蔵経に入れるよう願い出て、大広智三蔵の称号を受けた。大暦9年(774年)に入寂すると、三日間の服喪が命じられ、司空、大弁正の諡号が贈られ、舎利を納める塔が大興善寺に建てられた。弟子の恵果は青龍寺におり、その弟子が空海である。龍樹の作と伝えられて訳された『菩提心論』は、今日では不空自身の著作ではないかとされている。不空の流れは弟子たちを通じて日本の仏教にも大きな影響を与え、空海が開いた真言宗では六番目の祖師として敬われている。唐の中期、国を脅かす危機が続くなかで、皇帝たちは密教の護国の力を頼り、その流れは大きく広がった。だが唐の権力が衰え、外来の宗教への敵意も散発したため、定着は妨げられ、宋代には禅宗や浄土宗に比べて小さな流れとなったという。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物