伝記
エセルリックは、七世紀初めにかけて、イングランド北東部のデイラ王国を治めたとされる王である。没年は六〇四年頃とされるが、その実在や事績は歴史的にはっきりせず、不明な点が多い。デイラ王エラの後を継いだと考えられており、エラの子とも、兄弟ともいわれる。のちにデイラ王位を争ったエドウィンはエラの子で、エセルリックはその兄弟、あるいは叔父だった可能性が指摘されている。エラの跡を継いだ事情についても、エドウィンが幼かったためとも、エラが殺された後で、エセルリック自身がそれに関わっていたためともいわれるが、確かなことは分からない。
在位の年代は一定しない。『アングロ・サクソン年代記』は、エラの死後の五八八年にエセルリックが即位して五年間在位したと記し、五九三年にはエセルフリスがバーニシアとデイラを合わせた全ノーサンブリアの王になったと伝える。一方、ベーダは、グレゴリウス一世の宣教団がイングランドに到着した五九七年の時点で、エラがまだ王だったと述べている。このため、在位五年は五九九年から六〇四年の間だったとする説があり、年代記の編者が、同名のバーニシア王と取り違えたのだろうと考えられている。即位の年としては、ほかに五九〇年も挙げられる。中世の年代記の中には、五六八年から五七二年にかけてバーニシアを治めた同名の人物と混同したものもある。
その最期については、確かな情報が残っていない。ベーダは、六〇四年頃にバーニシア王エセルフリスがデイラを攻めて奪ったと書いているが、その経緯は不明で、エセルリックがどうなったかにも触れていない。エドウィンが国外へ逃れて亡命を強いられたことから、デイラは武力で征服され、エセルリックは戦いの中で殺された可能性があるともいわれる。エセルフリスは、一時は従属する王をデイラに置いたが、のちに退けたとする見方もある。逆に、年代記の記述を重んじる立場では、エセルリックは五九三年に王位を失い、デイラはエセルフリスがバーニシアの王になった直後に征服されたと考える。
エセルフリスは、デイラ支配を正当化するため、服属させるとすぐにエラの娘アハと結婚した。アハの兄弟エドウィンは、グウィネズ王イアゴ・アプ・ベリのもとへ逃れ、エセルフリスは、のちに彼を排除しようと大きな努力を払った。エセルリックには、オズリックを含む数人の息子がいたが、アイルランドで亡命生活を送っていた。エセルフリスが戦死すると、デイラの王統は一時、エドウィンのもとで復活した。エドウィンの死後、オズリックは帰国して王に選ばれたが、足場を固められたのはデイラだけで、父の王位を取り戻した形になった。バーニシア王には、エセルフリスの長男エンフリスが就いた。
同じ年に亡くなった人物
- スレッダ (604年(推定))
- グレゴリウス1世 (ローマ教皇) (604年没)
- Yohl Ik'nal (604年没)
- ナービガ (604年)
- 楊堅 (604年没)
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