伝記
ミルティアデスは、紀元前550年頃に生まれ、紀元前489年(紀元前488年とする記述もある)に没したアテナイの軍人・政治家である。ヘレスポントスにあるケルソネソスの僭主を務めたのち、アテナイに戻って将軍となり、マラトンの戦いでアテナイ・プラタイア連合軍を率いてペルシア軍を破った。この勝利によってアテナイの英雄と称えられたが、晩年は失敗と告発に見舞われた。
アテナイの名門ピライダイ家に生まれた。父キモンは、戦車競走で成功を重ねて名声を得ていたが、ペイシストラトスの一族に暗殺されたと伝えられる。ミルティアデス自身は同じ一族から厚遇された。兄弟のステサゴラスがケルソネソスで死ぬと、その後任として同地へ送られた。派遣は紀元前516年とされ、ヘレスポントス海峡を押さえ、黒海方面からの穀物の供給を確かなものにするねらいもあったという。到着後は、兄の喪に服すふりをして邸に籠もり、弔問に訪れた地元の有力者を捕らえて抵抗の芽を摘んだといわれる。トラキア人の傭兵500人を雇い、トラキアの王女ヘゲシピュレを妻に迎えて支持を固め、僭主の座に就いた。前妻との子メティオコスのほか、のちに名を知られる子キモンもいる。名は、ケルソネソスを開拓した同名の先祖(父キモンの異母兄弟)に由来する。
僭主として彼は、紀元前500年頃にレムノス島やインブロス島を支配下に収めるなどの功績を挙げた。レムノスの獲得時期には諸説があり、のちにアテナイへ譲り渡して、戻る日のための後ろ盾を作ったとする見方もある。なお、当時ペルシア軍の駐留を伝える史料は見当たらないとも指摘されている。ダレイオス1世のスキタイ遠征のころには、ドナウ川に架けられた橋を守るイオニアのギリシア人僭主たちに、橋を落として自由を得るよう説いたが、大半の賛同を得られなかったという。やがてイオニアの反乱が広がり、フェニキア海軍が近づく知らせを受けると、彼は五隻の三段櫂船と財産を携えてケルソネソスを離れた。途中でフェニキア艦隊に襲われ、一隻と長男メティオコスを奪われたが、残りは無事に逃れた。メティオコスはダレイオスに厚遇され、ペルシア人の妻を得たとされる。ミルティアデス本人は紀元前493年にアテナイへ戻った。
反ペルシアの立場を掲げた彼は、おそらく親ペルシア派のアルクメオン一族に僭主としての経歴を訴追されたが、無罪となった。アテナイの民会で将軍に選ばれ、紀元前490年のマラトンの戦いで、劇的な勝利を収めた。これにより彼の名声は一気に高まったといわれる。
ところが紀元前489年、彼は強い意気込みでパロス島の攻略に乗り出したものの、失敗に終わった。すると、ペリクレスの父クサンティッポスの告発を受け、民会で「アテナイ民衆への欺瞞」の罪に問われた。告発側は死刑を求めたが、かつての英雄であることが考慮され、50タラントンという極めて高額な罰金を支払うことで死は免れた。しかし支払いを終える前に、腿の壊疽によって獄中で亡くなったとされる。その負傷はパロス島遠征のさいに受けたもので、神罰の結果だともいわれた。
ケルソネソスの僭主から祖国の将軍へ、そして罰金刑を受けた獄中の死へと、その生涯は大きく振れた。それでも、ペルシアの大軍をマラトンで破った将軍としての名は、ペルシア戦争を語るうえで欠かせないものとして記憶されている。
同じ年に亡くなった人物
- クレオメネス1世 (紀元前489年没)
- Callimachus (紀元前489)
- フェイディピデス (紀元前 489年)
- ダティス (紀元前489)
- 提婆達多 (紀元前 489年)
同じ地域に関係する人物
- シラニオン (紀元前360)
- クリトラオス (紀元前119)
- プラトン (紀元前347年没)
- アテネ大司教ダマスキノス (1949年没)
- フェドン・キジキス (1999年没)