伝記
クレオメネス1世は、スパルタのアギス朝の王である。紀元前489年に没し、即位は紀元前520年とも、紀元前524年から523年ごろともされる。ギリシアの古典期を形づくった最も重要なスパルタ王の一人で、ペルシア帝国に対するギリシアの抵抗を組織するうえでも力があったと評される。生涯の多くはヘロドトスの『歴史』による。
父はアナクサンドリデス2世で、最初の妻に子ができなかったため、監督官(エフォロス)たちに迫られて二人目の妻を迎えた。クレオメネスはこの二人目の妻の子である。のちに父は最初の妻のもとに戻り、ドリエウス、のちに王となるレオニダス1世、クレオンブロトスの三人が生まれた。王位は長男のクレオメネスが継いだが、ドリエウスは自分こそが継ぐべきだと考え、クレオメネスの下に甘んじることを良しとせず、植民団を率いて国を出て、シケリアでのフェニキア人とエゲスタ人との戦いのさなかに戦死したと伝えられる。ヘロドトスは、クレオメネスの頭脳は正常ではなく狂気の気があったと述べている。
紀元前510年、僭主ヒッピアスを倒したいアルクメオン家は、デルポイの巫女を買収してスパルタに助力を促す神託を出させた。スパルタは将軍アンキモリオスを送ったが、ヒッピアスを助けるテッサリア騎兵に敗れて戦死した。そこでクレオメネスが総司令官として出陣し、テッサリア軍を破り、ペラルギオン砦にこもる僭主の一党を包囲した。偶然に僭主一族の子女が捕らえられると、ヒッピアス派は5日以内にアッティカを去る条件で降伏した。のちアテナイでイサゴラスとクレイステネスが争い、クレイステネスが勝つと、イサゴラスの求めで再び軍を率いて現れ、クレイステネスらを「穢れ人」として追放した。さらに評議会(ブーレー)を廃してイサゴラス派の300人に政権を委ねようとしたが、アテナイ人に包囲されて失敗し、国を去った。翌年にはイサゴラスを僭主にしようとエレウシスに侵攻したが、コリントス軍と王デマラトスが引き上げ、作戦は失敗した。その後、クレオメネスは方針を転じ、ヒッピアスの復権を同盟諸国に諮ったが、コリントス人ソクレスらの反対で中止となった。
紀元前499年、ミレトスのアリスタゴラスがイオニアの反乱への協力を求めて訪れた。ペルシアの富で説得したものの、ペルシアまでの距離の遠さを知ったクレオメネスは追い返したという。紀元前494年にはデルフォイの神託を受けてアルゴスに侵攻し、セペイアの戦いで破った。アルゴスは成年男子のほとんどを失い、その数は6000とも5000ともいわれる。紀元前492年にアイギナがペルシアに服従すると、クレオメネスは首謀者を逮捕しようとしたが、もう一人の王デマラトスは協力せず、アイギナ側も引き渡しを拒んだ。
業を煮やしたクレオメネスは、エウリュポン朝の王族レオテュキデスと結び、デマラトスの出生の秘密を根拠に廃位し、レオテュキデスを王に据えた。二人の王が改めて要求すると、アイギナは従い、引き渡された人々はアテナイに渡された。紀元前490年、この陰謀が露見してクレオメネスはテッサリアへ逃れ、さらにアルカディア人を集めてスパルタに戦いを挑もうとした。これを恐れたスパルタ人は帰国を許し、王位に戻した。だがクレオメネスは発狂し、近親者に木の足枷で監禁された。そして看守に短剣を渡させ、自らの体を切りつけて死んだ。その最期について、アルゴス人はセペイアの戦いのあとに神域の樹木を焼いた神罰とし、ヘロドトスはデマラトスを陥れた報いとしている。王位は弟で、娘ゴルゴの婿でもあるレオニダス1世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ダティス (紀元前489)
- ヒッピアス (僭主) (紀元前 489年)
- Callimachus (紀元前489)
- フェイディピデス (紀元前 489年)
- ミルティアデス (紀元前489年没)
同じ地域に関係する人物
- テュルタイオス (紀元前700)
- Dimitrios Ypsilantis (1832年没)
- ペロプス (スパルタ王) (紀元前206年没)
- リュクルゴス (スパルタ王) (紀元前210年没)
- マテオス・カンダクジノス (1383年没)