伝記
カリマコスは、紀元前490年のマラトンの戦いの当時にアテナイでポレマルコス(軍事長官)を務めた人物である。ヘロドトスによれば、アッティカのアピドナイ区の出身であった。紀元前489年に没したとされる。ポレマルコスは、ミルティアデスを含む10人の将軍(ストラテゴス)とともに、軍事に関する議決で投票権を持っていた。ヘロドトスは、ミルティアデスがカリマコスに演説をして、戦うことに賛成票を投じるよう説得したと記している。将軍たちの意見が同数に割れていたなかで、ミルティアデスはカリマコスを説き伏せ、会戦に賛成させたのである。
戦いでは、当時のアテナイの慣例に従い、カリマコスは右翼を指揮した。左翼はプラタイアの軍が受け持った。中央の戦列が一見無謀とも思える突撃を行ったのち、左右の両翼がペルシア軍を包囲した。ギリシア側は勝利を収めたが、カリマコスはペルシア軍が退却する際、船まで追撃するなかで討ち死にした。プルタルコスは『倫理論集』の「ギリシア・ローマ対比物語」のなかで、カリマコスが非常に多くの槍で貫かれたため、死んでもなお直立の姿勢を保っていたと述べている。
戦いの前にカリマコスが、勝てば戦場で倒れたペルシア兵の数と同じだけの山羊をアルテミス・アグロテラに捧げると誓ったとする伝えもある。アテナイ人は、戦死者が6,400人にのぼり山羊が足りなかったため、毎年500頭を捧げることで、この誓いを心の上で守ったという。
戦死者を悼む葬礼では、名のある人物が追悼演説を行うのが習いであった。六世紀ののちの弁論家ポレモンは、キュナイゲイロスの父とカリマコスの父が、どちらが演説すべきかをめぐって民会で争う場面を想像して、それぞれの弁論を創作した。これは修辞の腕を示すための架空の設定である。
カリマコスは、ストア・ポイキレの壁画にアテナイの神々や英雄とともに描かれた。アテナイ人は彼をたたえる像「カリマコスのニケ」も建てた。像はアクロポリスで、ペルシアに破壊された旧パルテノンの傍らに置かれたもので、大きな円柱の上に勝利の女神ニケが立つ姿をしていた。ペンテリコン産とパロス産の大理石でつくられ、残った断片はアテネのアクロポリス博物館に収められている。
同じ年に亡くなった人物
- クレオメネス1世 (紀元前489年没)
- フェイディピデス (紀元前 489年)
- ミルティアデス (紀元前489年没)
- ヒッピアス (僭主) (紀元前 489年)
- ダティス (紀元前489)
同じ地域に関係する人物
- ゲオルギウス・ゾイタキス (1996年没)
- クリティアス (三十人僭主) (紀元前403年没)
- Ioannis Zizioulas (2023年没)
- フェドン・キジキス (1999年没)
- スピリドン・ルイス (1940年没)