伝記
テオダハドは、東ゴート王国の第4代国王(在位534年から536年)である。生年は480年とも482年ともされ、没したのは536年12月である。大王テオドリックの妹アマラフリダの息子で、テオドリックの甥にあたる。テオドリックの娘アマラスンタから共同統治者に指名されながら、これに背いて彼女を幽閉し、王位を独占した。この行いは、アマラスンタの庇護者を自任する東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世に侵攻の口実を与え、テオダハド自身も非業の死を遂げた。
テオダハドはアマル家の血筋で、アマラフリダがヴァンダル王国に嫁ぐ前に、記録に残らない男性との間にもうけた子である。480年ごろにタウレシウムで生まれ、テオドリックのイタリア征服の時期に、幼い子か少年としてイタリアに来たとみられる。プラトンやラテン文学に関心を寄せ、トスカーナに大きな土地を集めて富を築いたが、近隣への暴力的な手段や侵奪も用いたと伝えられる。この土地への執着は悪名高く、摂政のアマラスンタは、返還を命じたほどだった。トスカーナを領したためフランク王国からはトゥーシア公と呼ばれたが、東ゴート王国が危機に陥ったとき、領地を東ローマ帝国に譲ってコンスタンティノープルで安楽に暮らそうと試みたこともある。危機に際しても優柔不断で、逃亡を試みるなど適切な対処ができなかった。こうした性格からテオドリックにたいへん嫌われ、2度にわたって告発されて法廷に立たされた。
テオドリックが後継に考えていたのは孫のアタラリックであり、テオダハドが本命とされたことはなかった。軍事の経験に乏しく、戦いを重んじるゴート社会の指導者には向かないと評された。アタラリックの幼少期には、アマラスンタが10年にわたって摂政を務めたが、534年に彼が死ぬと、彼女は自ら女王として統治しようとした。親東ローマ的な立場と女性であることから貴族の反発を受け、陰謀の疑いで一部を処刑した。テオドリックの死後、テオダハドは反アマラスンタ派の首領となり、将軍トゥリンやキュプリアヌスらとともに、532年から533年にかけて彼女に圧力をかけた。しかしアマラスンタは、フランクのアレラテ(現アルル)侵攻の際に反対派の将軍を暗殺し、勢力を弱めた。
アマラスンタは立場を固めるため、534年にテオダハドを共同統治者に指名した。就任に先立ち、テオダハドは彼女への忠誠を誓わされたという。しかし実権は奪われたため、テオダハドは同年末に突如反乱を起こし、アマラスンタを追放して王位に就いた。彼女はボルセーナ湖の小島に幽閉され、535年4月30日ごろに、彼女に恨みを持つ人物によって殺された。
東ローマ帝国は報復として、将軍ベリサリウスの艦隊をシチリア島に送って陥落させ、ダルマティアからは将軍ムンドの陸上部隊がイタリアを目指した。テオダハドは皇帝の使節ペトルスと交渉して事態の沈静化を図ったが、カルタゴの反乱でベリサリウスが北に向かい、ムンドの部隊がゴート軍に殲滅されると、一転してペトルスを投獄し、対決姿勢を取った。しかし東ローマ帝国はすぐにダルマティアを奪還し、カルタゴを押さえたベリサリウスは再びイタリアに向かい、536年に3週間の包囲の末にナポリを征服した。追い詰められたテオダハドはゴート軍の集まるローマに赴いたが、煮え切らない態度に業を煮やしたゴート人たちは、536年11月に退位を要求した。慌ててラヴェンナへ逃れる途中の12月初旬、後継に任命された総司令官ウィティギスの命を受けた刺客に暗殺された。その治世は失敗とみなされ、戦争はイタリアを荒廃させ、王国の滅亡につながった。
同じ年に亡くなった人物
- アガペトゥス1世 (ローマ教皇) (536年没)
- Pope Timothy III (IV) of Alexandria (536年没)
- 陶弘景 (536年没)
- Drest IV (536年)
- 安閑天皇 (536年没)
同じ地域に関係する人物
- ライヌルフ (1045年没)
- ロベルト・クレメンテ (1972年没)
- パオロ・ピレリ (2007年没)
- ブラバンのシゲルス (1284年没)
- マリーノ・グリマーニ (1546年没)