伝記
ブラバンのシゲルスは、13世紀の哲学者で、アリストテレスの研究者である。1240年ごろ、北海沿岸の低地地方、ブラバント地方の出身とされる。イスラムの思想家アヴェロエスによる注釈をとくに重んじ、ダキアのボエティウスとともに、ラテン世界のアヴェロエス主義、あるいは急進的なアリストテレス主義の代表的な人物とされる。その人生の詳細は、ほとんど知られていない。1255年から1257年にかけて、パリ大学の学芸学部で学んだとされる。学生と教師が出身地ごとにつくる友愛結社「同郷団」のうち、ピカルディ同郷団に属し、その指導者として活動した。リエージュの聖堂参事会員でもあり、のちにパリ大学の学芸学部で教えたという。1266年、フランス同郷団との抗争がおこったとき、シゲルスはその中心人物の一人とみられ、事態を収めるために派遣された教皇特使の聴取を受けた。しかし訓戒されただけで、処罰は受けなかった。
1272年、ピカルディ同郷団の指導者だったシゲルスは、学芸学部長の選挙に立候補したと推測されている。対立候補のフランス人教師、ランスのアルベリックが過半数の票を得たが、シゲルスの支持者たちは不正があったと主張して結果を認めず、シゲルスを独自の学部長に選んだ。こうして学芸学部は事実上二つに分裂し、その状態は3年にわたって続いた。1275年、教皇特使のブリオーニのシモン(のちの教皇マルティヌス4世)が、アルベリックを選んだ保守派に有利な裁定を下し、分裂は解消された。シゲルスは故郷のリエージュへ帰った。
シゲルスは、信仰によって明らかにされる真理とは別に、自然の観察と分析による理性の真理があるという「二重真理説」を教えたとして、非難された。ただ本人は、哲学の結論が信仰と矛盾するときは、教会の教義を優先すべきだと言明していた。1276年、リエージュのシゲルスのもとに、フランスの異端審問官でドミニコ会士のシモン・ド・ヴァルから、異端の疑いについて答弁せよという召喚状が届いた。同じ急進派のダキアのボエティウスやニヴェレスのベルニエにも、同様の召喚状が届いた。1277年3月7日には、パリ司教のステファヌス・テンピエが、学芸学部の教師たちが説いていた219の命題を断罪した。シゲルスもその名があがった一人だった。
シゲルスらは出頭を拒み、教皇庁の法廷に訴えるためにイタリアへ逃れたといわれる。教皇のいたオルヴィエトに身を寄せたともいう。ただ、召喚に応じて無罪放免になったとする研究もある。没したのは1282年ごろ、遅くとも1284年11月とされ、同月10日付の書簡ではすでに故人として扱われている。狂乱した秘書に刺されて亡くなったという説がある。
その思想は、アリストテレスの文献を中世西欧の神学のなかに取り込む流れのなかにあった。シゲルスは注釈で、ここでは哲学者の意見だけを探究するのであり、啓示による真理は自然の理性を超えているが、自然のことは自然に即して語ると断っている。理性と信仰を、自然の秩序と超自然の秩序という別の領域とみなす一方、二つが矛盾するときは信仰を優先すべきだとしたので、二重真理説を唱えたとは言い切れないともいわれる。普遍は個々のものから抽象して得る概念だと考え、世界が永遠であるという哲学の説は、トマス・アクィナスと同じく退け、世界に始まりがあることは信仰によって受け入れた。知性については能動知性と受動知性を立て、能動知性は全人類に共通、受動知性は個々人のものとしたが、アヴェロエスの単一知性説は教会の教えに反するとして従わなかった。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・アン=ナフィース (1284年(推定))
- ピエール1世 (アランソン伯) (1284年没)
- テグデル (1284年没)
- アルフォンソ10世 (カスティーリャ王) (1284年没)
- ナスレッディン・ホジャ (1284年)
同じ地域に関係する人物
- マリーノ・グリマーニ (1546年没)
- アルベルト・ラットゥアーダ (2005年没)
- ライヌルフ (1045年没)
- テオダハド (536年没)
- アデル・ド・フランドル (1115年没)