伝記
陶弘景は、中国の六朝時代、456年に生まれ536年に没した医学者・科学者であり、道教の茅山派の開祖である。字は通明。隠居後は名を捨てて華陽隠居と名乗り、晩年には華陽真逸と称した。眉目秀麗で博学多才、詩や琴棋書画を嗜み、医薬、卜占、暦算、経学、地理学、博物学、文芸に通じた。イギリスの中国学者ジャイルズは、その多才ぶりを中国のレオナルド・ダ・ヴィンチにたとえたという。丹陽郡秣陵県、現在の江蘇省南京市江寧区の人で、南朝の士大夫の家に生まれた。祖父の陶隆は王府参軍、父の陶貞宝は孝昌県令を務めた。父と祖父は学識があり書にも巧みで、本草にも通じていたとされ、母方は熱心な仏教徒であったという。
幼いころから極めて聡明で、たちまち書法を会得し、万巻の書を読んだ。一度関心を持った事柄は、知り尽くすまでやめなかったという。10歳のときに葛洪の『神仙伝』を読んで道教に傾き、隠者になろうと志したとされる。15歳で『尋山志』を著したともいう。20代の半ばごろ、のちに南斉の高帝となる蕭道成に召されて諸王の侍講となった。父の死で一度職を辞したが、高帝の跡を継いだ武帝にも召され、左衛殿中将軍に任じられている。母が亡くなって喪に服した時期には、陸修静の弟子である孫游岳に師事し、経典の読誦や護符の描き方を学んだ。孫游岳から上清派の啓示の原本を見せられて魅了され、茅山を初めて訪れ、各地で原本の収集を始めたという。
492年、36歳で官を辞し、弟子とともに茅山に隠棲した。このとき皇帝の肝いりで盛大な送別の宴が開かれたと『南史』は伝える。茅山では三層の楼閣を建てて弟子を指導しながら、天文、暦算、医薬、地理、博物など多方面の研究と錬丹の実験に打ち込んだ。名山を巡って薬草や丹薬の材料を探し、508年から512年にかけては東南の各地を旅して実験を続けたという。499年ごろには上清派の啓示の文書を編んで『真誥』をまとめた。これは上清派の歴史と教義を伝える重要な文献である。茅山に弟子とともに道館の華陽館を建て、多くの門弟を育てて優れた道士を送り出した。仏教にも深く傾倒していた。
王朝が梁に替わると、武帝の蕭衍は昔なじみの陶弘景を厚く遇した。蕭衍は斉の末に、陶弘景から自分が斉の正統な後継者となることを示す予言の文書を贈られたという。武帝は元号の選定をはじめ、吉凶や軍事など国の重大事について意見を求め、頻繁に書簡を交わしたため、人々は陶弘景を山中宰相と呼んだ。514年には武帝が茅山に朱陽館の建設を命じ、陶弘景は翌年そこに入ったという。名声は年とともに高まり、王侯や貴族の多くが門下に入り、『文選』の編者として知られる昭明太子も教えを受けた一人であった。
500年ごろには『神農本草経』を整理して『本草経集注』を著し、薬物の数を730種と従来の2倍に増やし、性質に基づく新しい分類法を考案した。漢方医学の薬学の祖とも呼ばれ、唐代に蘇敬らが勅命で編んだ『新修本草』は、この書の内容を受け継いで増補したものである。ほかに『登真隠訣』『養生延命録』『補闕肘後百一方』などがあり、著述は44冊に上った。書では王羲之や鍾繇に学んで淡雅な書風であり、「瘞鶴銘」は陶弘景の書とされ、北宋の黄庭堅はこれに大きな影響を受けたという。武帝との書簡で交わした書論は、唐代に張彦遠の『法書要録』に収められた。536年に没し、享年は81とされるが、『南史』では85とする。諡は貞白先生である。
同じ年に亡くなった人物
- Pope Timothy III (IV) of Alexandria (536年没)
- 安閑天皇 (536年没)
- Mundus (536年没)
- アガペトゥス1世 (ローマ教皇) (536年没)
- Drest IV (536年)