伝記
アイザック・ニュートンは、ユリウス暦1642年12月25日に生まれ、1727年3月20日に没したイングランドの自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者である。古典力学と微積分法の創始、万有引力の考え方の提唱で知られ、光学の発展にも貢献した。力の単位ニュートンは彼の名に因む。
リンカンシャーのグランサム郊外の寒村に生まれた。父は同名のアイザックで、郷士のような身分の農園主だったが、母ハナが出産する3か月前に没していた。未熟児で、産婆には「この子は長生きすまい」とまで言われたという。3歳のとき、母は近隣の牧師バーナバス・スミスと再婚し、ニュートンは祖母に育てられることになった。母の再婚に反発し、「放火して家ごと焼き殺す」などと脅したと伝えられるが、のちにその発言を悔い、実母とは付かず離れずの関係を保ちつつ、老後の世話をしたとされる。1655年にグランサムのグラマースクールに入学し、薬剤師のクラーク家に下宿して、薬学の蔵書に興味を持った。クラーク家の養女ストーリーと親しくなり、18歳で婚約したが、終生独身で、後年まで交際と金銭的援助を続けたとされる。。
14歳のとき継父が死去し、母は農園を営むために彼を退学させたが、農作業を放り出して化学書を読み、水車作りに熱中するのを見て、農業に向かないと悟り、親類に相談した。助言に従って、ニュートンは2年後にグラマースクールへ復学し、ケンブリッジのトリニティ・カレッジへの入学に備えた。1661年に入学し、授業料の援助を受ける代わりに雑用を務める学生の身分だったため、他の学生とは打ち解けなかったという。当時の大学の課程はアリストテレス以来のスコラ哲学が中心だったが、彼は比較的新しい数学書や自然哲学書を好み、ユークリッドの『原論』、デカルトの『幾何学』、ウォリスの『無限算術』、ケプラーの『屈折光学』などを読んだ。師のアイザック・バローは初代ルーカス数学講座教授で、その才能を高く評価し、庇護した。1664年に奨学金を得て、1665年にカレッジを卒業した。
ロンドンでペストが大流行して大学が閉鎖されると、1665年から1666年にかけて2度、故郷のウールスソープに疎開した。この約18か月間に、万有引力の思索などの基礎が築かれた。リンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついたという逸話の舞台も、この時期のウールスソープである。1667年にケンブリッジに戻ると、フェロー職の欠員が生じてその職に就き、『無限級数の解析』を書いた。1668年に反射望遠鏡を考案し、1672年に王立協会の例会に提出された改良機は、彼が会員に推薦される理由となった。1669年にはバローから譲られて、ルーカス教授職に就いた。講義は難解で、聴講者が一人もいないこともしばしばだったという。この時期に『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』(1687年刊)と『光学』(1704年刊)を執筆した。1688年には大学選出の庶民院議員となったが、議会での発言は「議長、窓を閉めてください」だけだったとされる。
その後は、フックとの先取権争いやフラムスティードとの対立で疲れ、不眠などの不調に悩み、1693年には、うつ状態に陥ったともいう。1696年に王立造幣局の監事に就任してロンドンに移り、1699年には長官に昇格した。造幣局長官としては通貨偽造犯の逮捕・処刑に辣腕をふるって、1717年にはニュートン比価と兌換率を定めた。一方で錬金術や聖書解釈も独りで熱心に探求し、ケインズは彼を「片足は中世に置き、片足は近代科学への途を踏んでいる」と評した。
同じ年に亡くなった人物
- Jakob Abbadie (1727年)
- エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝) (1727年没)
- ジョージ1世 (イギリス王) (1727年没)
- フランチェスコ・ファルネーゼ (1727年没)
- ボリス・クラキン (1727年)
同じ地域に関係する人物
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- ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー (1851年没)
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