伝記
サミュエル・スマイルズは、1812年12月23日にスコットランドのハディントンで生まれた英国の作家であり、思想家、医者である。父サミュエルと母ジャネット・ウィルソンの間に生まれ、生き残った11人の子の一人だった。家族は厳格な改革派長老教会員だったが、本人はそれを実践しなかった。地元の学校で学び、14歳で離れて、ロバート・ルーウィンズ医師のもとに医者の見習いとして入った。この取り決めのおかげで、1829年にエディンバラ大学で医学を学ぶことができた。そこで政治への関心を深め、ジョゼフ・ヒュームの強い支持者になった。1832年のコレラの流行で父を亡くしたが、母が小さな雑貨店を営み、「主が備えてくださる」と信じて働き続けたため、学業を続けることができた。母が自分と9人の年下のきょうだいを支えるために働き通した姿は、後の人生に強く影響した。
当初エディンバラで医者を開業したが、後に著述に専念するようになった。1837年から改革派の新聞に、議会改革を求める記事を書き、1838年11月に『リーズ・タイムズ』の編集者に招かれて、1842年まで務めた。1840年5月には、チャーティズムの6項目を掲げる議会改革協会の書記になった。男性の普通選挙や秘密投票などを求める運動である。編集者としては、女性参政権から自由貿易、議会改革まで、急進的な主張を支持した。1840年代の終わりには、チャーティストが物理的な力を訴えることを懸念し、「単なる政治改革では、社会を苦しめる多くの悪は治らない」と述べた。1843年12月7日にサラ・アン・ホームズ・ディクソンと結婚し、3人の娘と2人の息子がいた。1845年に新聞を離れて、新設された鉄道会社の書記になり、のちには別の鉄道会社でも働いた。
医者としても、ジャーナリストとしても、あまり成功しなかった。協同事業にいくつか加わったが、資金不足で失敗し、幻滅して、中産階級のユートピア主義から離れた。1850年代に議会への関心を捨て、自助こそ改革の最も大事な場所だと考えるようになった。『自助論』の起源は、1845年3月に、相互改善協会の求めに応じて行った講演にある。1857年には『ジョージ・スチーブンソン伝』を出版し、1859年にジョン・マレー社から『自助論』を出版した。この本は、倹約を勧め、貧困の原因の多くは無責任な習慣にあると主張し、物質主義と自由放任の政府を批判した。「ヴィクトリア朝中期の自由主義の聖書」と呼ばれ、英国の政治思想に長く影響を残した。日本国内では、序文中の格言「天は自ら助くる者を助く」で広く知られている。
1866年に江戸幕府の留学生取締役として英国に留学した中村正直が、1867年発行の増訂版を用いて、1871年に『西国立志編』の題で邦訳し、明治維新まもない日本で出版した。その思想は福沢諭吉の『学問のすすめ』とならび、近代日本の進展に大きな影響を与えたと言われる。1866年に国民共済協会の会長となったが、1871年に脳卒中で倒れて辞めた。その後も『人格論』(1871年)、『節約論』(1875年)、『義務』(1880年)などを著した。1904年4月16日に没した。
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