伝記
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、19世紀のイギリス・ロマン主義を代表する画家である。1775年、ロンドンのコヴェント・ガーデンにあるメイドン・レーン21番地で、理髪師ウィリアム・ターナーの子として生まれた。生年月日は本人が秘密めかしたため確かでなく、本人が主張した4月23日という日付も検証されていない。母メアリ・マーシャルは精神を病んでいて息子の世話を十分にできず、1799年にはセント・ルーク病院へ入り、翌年にはベスレム病院に移って1804年に亡くなった。妹メアリ・アンが幼くして亡くなったことも、その一因と考えられている。ターナーは学校教育をほとんど受けず、少年期は特異な環境で過ごした。1785年ごろには母方の叔父のもとへ預けられ、ブレントフォードやマーゲイトで学校に通った。このころから絵に関心を持ち、父が店先に飾って数シリングで売った素描に署名を入れるようになったという。
1789年、風景画家トーマス・モルトンに弟子入りして絵画の基礎を学んだ。当時の風景画家の仕事は、特定の場所の風景を念入りに再現する名所絵のような作品をつくることだった。1年ほど修業したのちロイヤル・アカデミー附属美術学校に入り、初代会長ジョシュア・レノルズと接した。1797年に油彩画を初めて出品し、1799年には24歳でロイヤル・アカデミー準会員、1802年には26歳で正会員となった。その昇進の早さは際立っていた。準会員になってからの約20年は有力なパトロンに恵まれ、順調に歩んだ。初期はアカデミー受けのする写実的な風景を描き、『カレーの桟橋』(1803年)や『アルプスを越えるハンニバルとその軍勢』(1812年)には、大気や光、雲を劇的に表すロマン主義的な特色が見られる。
転機は1819年、44歳でのイタリア旅行であった。イタリアは北方の画家にとってあこがれの地で、ターナーも明るい陽光と色彩に魅せられ、とくにヴェネツィアを愛して何度も訪れ、多くのスケッチを残した。油彩の大作を発表するかたわら、フランス、スイス、イタリアなどヨーロッパ各地を旅して、風景の写生を重ねている。主な作品には『トラファルガーの戦い』(1822年)、『解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号』(1838年)、『雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道』(1844年)がある。1842年の『吹雪――港の沖合の蒸気船』では、蒸気船はぼんやりした塊にすぎず、巨大な波や水しぶき、吹雪という自然の力が描き出され、発表当時は石鹸水と水漆喰で描いたようだと酷評された。制作のために嵐を観察しようと、マストに4時間縛りつけられたという逸話が伝わる。
1851年12月19日、ロンドンで没した。手元にあった主要作品はすべて国家に遺贈され、作品の多くはロンドンのナショナル・ギャラリーやテート・ギャラリーで見られる。水彩でも屈指の風景画家で「光の画家」と呼ばれ、同時代のコンスタブルとともに印象派の先駆者とみなされる。広く知られる自画像はかなり美化されたものだといわれる。名を冠したターナー賞は1984年からイギリスの美術家に毎年贈られ、夏目漱石の『坊ちゃん』で愛媛の無人島が「ターナー島」と呼ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- フェルディナント・ゲオルク・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト=コハーリ (1851年没)
- エドワード・スミス=スタンリー (第13代ダービー伯爵) (1851年没)
- カール・ラハマン (1851年没)
- シルベスター・グラハム (1851年没)
- ジョエル・ロバーツ・ポインセット (1851年没)
同じ地域に関係する人物
- マイケル・ウィナー (2013年没)
- フィリップ・ミラー (園芸家) (1771年没)
- ウィリアム・カーティス (1799年没)
- ジェームズ・マクニール・ホイッスラー (1903年没)
- チャールズ・モーガン (1958年没)