伝記
フレディ・マーキュリーは、1946年9月5日に、当時イギリスの保護国だったザンジバル島のストーン・タウンで、ファルーク・バルサラとして生まれた、イギリスのロックバンド「クイーン」のメンバーである。ファルークはペルシア語の名で、「幸福な、幸運な」の意味に由来する。インド生まれの父ボミと母ジャーは、ゾロアスター教徒のパールシーで、植民地政府のオフィスで会計係として働く父が仕事を続けるため、妻とザンジバルに移った。幼少期の大半はインドで過ごし、7歳でピアノを習い始めた。8歳で、ボンベイ郊外パンチガニの全寮制の英国式寄宿学校に入った。12歳でスクールバンドを結成し、クリフ・リチャードやリトル・リチャードのカバーを演奏した。当時の友人は、「ラジオで聴いた曲を、その後ピアノで再現する特異な能力を持っていた」と述懐している。勉学の成績はとても悪く、進級試験に落第することもあった。
1963年にザンジバルに戻って家族と暮らし始めたが、その翌年にザンジバル革命が起き、アラブ人とインド人に多数の死傷者が出た。17歳のフレディと家族は島から逃れ、イングランドのミドルセックス州の小さな家に移り、両親は郊外住宅の使用人として働いた。ウェスト・ロンドンの工業学校に入り、働きながら芸術を学び、のちに大学で2年間、芸術とグラフィック・デザインを学んだ。この技術は、のちにクイーンでの衣装のデザインに生きた。ジミ・ヘンドリックスに憧れ、さまざまなバンドに参加しながら、ロジャー・テイラーと、ロンドンの市場で古着を売っていた。
1970年4月、ギタリストのブライアン・メイと、ドラマーのロジャー・テイラーのバンド「スマイル」に加わった。バンド名は、フレディが選んだ「クイーン」にした。この名について彼は、堂々としていて響きもよく、力強くて、どこでも通用するわかりやすい名前だ、ゲイを思わせる名前だとわかっていたが、それは一面にすぎない、と語っている。同じころ、姓をバルサラからマーキュリーに改めた。フレディはレッド・ツェッペリンのロバート・プラントを尊敬しており、初期のクイーンは、その影響を深く受けたサウンドを奏でた。「ボヘミアン・ラプソディ」「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「伝説のチャンピオン」などのヒット曲を作った。グレイテスト・ヒッツの17曲のうち、10曲をフレディが作曲している。ロカビリー、プログレッシブ・ロック、ヘヴィメタル、ゴスペル、ディスコなど、広いジャンルで作曲したことが特徴である。
世界中のスタジアムでライブを行い、そのスタイルは演劇的だった。デヴィッド・ボウイは、演劇的なロックパフォーマンスを見せるアーティストの中でも、フレディは破格で、観客を手のひらの中につかめる人物だったと賞賛した。ブライアン・メイは、スタジアムの最後列の最後の一人まで、彼と繋がっているように感じさせることができる人物だったと書いている。最も有名なパフォーマンスの一つが、1985年のライヴエイドである。クイーンとして、世界中で約700ものコンサートを行い、1981年のサンパウロでは観客数の世界記録を作った。1986年にはブダペストで8万人の観客を前に演奏した。最後のコンサートは、1986年8月9日に、イングランドのネブワース・ハウスで、30万人ほどの観客の前で行った。広いボーカル・レンジで知られ、ポピュラー・ミュージックの歴史でもっとも偉大なシンガーの一人とされる。1991年11月24日、エイズを発症し、ニューモシスチス肺炎のため死去した。45歳であった。
同じ年に亡くなった人物
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- フォレスト・タウンズ (1991年没)
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- フランコ・マリア・マルファッティ (1991年没)
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- ウィリアム・ドッド (1954年没)
- ジェームズ・マクニール・ホイッスラー (1903年没)
- ウィリアム・バージェス (1881年没)
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