伝記
メアリー2世は、1662年4月30日にロンドンで生まれ、1694年12月28日に亡くなったイングランド、スコットランド、アイルランドの女王(在位1689年〜1694年)である。父はのちのジェームズ2世となるヨーク公ジェームズ、母は最初の妻アン・ハイドで、その長女だった。伯父は国王チャールズ2世である。母はカトリックに改宗したが、チャールズ2世の命により、メアリーは妹のアンとともにプロテスタントとして育てられた。後のロンドン主教ヘンリー・コンプトンのもとで教育を受け、音楽や舞踊、素描、フランス語、宗教の授業を主に学んだ。1671年に母が亡くなると、父は2年後にカトリックのモデナ公女マリアと再婚した。
1677年11月4日、伯父の勧めで、従兄にあたるオラニエ公ウィレム3世(のちのウィリアム3世)とロンドンで結婚した。この縁談を告げられたとき、メアリーは「午後いっぱいと翌日も泣き続けた」と伝わる。政略結婚であり、両国の関係の安定につながるものとは言い難かった。ハーグに移ってからはオランダに馴染み、民衆の人気も得た。夫は喘息持ちで猫背、メアリーより背が低く、愛人たちの存在にも悩まされたこともあって、当初は夫婦仲が悪かったが、やがて関係を修復した。
1685年に父がジェームズ2世として即位すると、カトリックを重用する王と議会の対立が深まり、議会はジェームズ2世の追放とメアリーの擁立に傾いた。メアリーはカトリック化政策を取る父を諫め、1687年にカトリックへの改宗を勧められたときは拒絶している。夫からイングランド遠征の話を聞かされると了解したが、継母から異母弟の誕生を祝う手紙や、遠征に協力して父に逆らうのではと疑う手紙が届いた際には、曖昧な返事を出している。1688年、ウィレムの率いるオランダ軍が出航するのを見届けて、オランダで待機した。軍はほとんど抵抗を受けずに上陸し、ジェームズ2世は処刑されることなくフランスへ追放された。血が流れなかったため、この政変は名誉革命と呼ばれる。
メアリーは1689年2月に渡英し、ハンプトン・コート宮殿に住んだのち、夫の健康問題からケンジントン宮殿に移った。当初、議会はメアリー一人の即位を望んだが、ウィリアム3世が難色を示し、メアリー自身も共同統治を望む手紙を夫に送ったので、二人が共同で王位に即いた。夫がアイルランドや大陸の戦いで留守にする間、メアリーはイングランドを預かり、政治的な手腕を発揮した。1690年、英蘭連合艦隊がビーチー・ヘッドの海戦でフランス艦隊に大敗すると、オランダには謝罪し、責任者のトリントン伯をロンドン塔に送って国民の団結を図った。
夫との間に子は生まれず、3度とも流産したため、後継者は妹のアンに決まっていた。しかしアンとは居住区画の拡大と財産分与の問題で関係が悪化し、1692年に女官サラ・ジェニングスの解任を求めて拒まれ、絶交した。アンの子が夭折したときの見舞いを最後に、二度と会おうとしなかった。1694年、ケンジントン宮殿で天然痘により亡くなり、以後はウィリアム3世の単独統治となった。夫は深く悲しみ、再婚しなかったと伝わる。ウィリアムとアンは女王の死後に和解し、1702年のウィリアムの死後は、権利の章典の取り決めによりアンが即位した。
同じ年に亡くなった人物
- ピエール・ピュジェ (1694年没)
- 松尾芭蕉 (1694年没)
- クレール=クレマンス・ド・マイユ=ブレゼ (1694年)
- ヨハン・ゲオルク4世 (ザクセン選帝侯) (1694年没)
- ラヌッチョ2世・ファルネーゼ (1694年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・バプティスト・クラーマー (1858年没)
- ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー (1851年没)
- ジョージ・ジョンストン・ストーニー (1911年没)
- ダーク・ボガード (1999年没)
- イアン・ホルム (2020年没)