HISTORICAL PERSON · 457年没

テオドレトス

アンティオキア学派最後の大神学者とされる聖書解釈者・教会史家。423年にキュロスの主教となり、キュリロスと論争してネストリオスを擁護し、後継者たちの単性論にも反駁した。『教会史』などを著した。

生涯
457年没
死亡地
シリア共和国(アレッポ県 / キュロス)
出生地
トルコ共和国(アンティオキア)
出典
世界地図
シリア共和国(アレッポ県)

伝記

キュロスのテオドレトスは、393年にアンティオキアで生まれ、457年に没したとされる聖書解釈者、教会史家、神学者であり、キュロスの主教(司教)を務めた。アンティオキア学派最後の大神学者といわれ、東ローマ帝国(初期ビザンツ帝国)時代の神学論争では、アレクサンドリアのキュリロスと論争し、その後継者たちのいわゆる単性論にも反駁したことで知られる。

裕福なキリスト教徒の両親のもとに生まれたが、本人が『シリアの修道士たちの生涯』で語るところでは、母はなかなか子を授からなかった。苦しんだ父がアンティオキア奥地で苦行していた隠修士マケドニオスに祈りを依頼し、生まれた子を修道士にすると誓ったため、「神の賜物」を意味するテオドレトスの名が付けられたという。両親が亡くなるとアパメイア近くの修道院で修道生活を送り、423年、30歳で、800前後の小教区をもつ街キュロスの主教に任命された。自身の証言によれば、主教職の間にキュロスの公共浴場や橋などの公共施設を整備し、マルキオン派の信徒を1000人超も改宗させ、アレイオス派やエウノミオス派の信徒も回心させたという。

キュロスはシリアの中心都市アンティオキアに近く、彼の神学もアンティオキアの伝統をくむものとなった。この学派は聖書解釈で歴史的文脈や語句・字義を重んじ、七十人訳に縛られずアクィラ、シュンマコス、テオドティオンらの別のギリシア語訳も積極的に用いた。聖句を比喩的にとらえるオリゲネスらの方法とは対照的であった。キリスト論では人性を強調し、神性を強調するアレクサンドリア派と対立した。428年にコンスタンティノポリス主教となったネストリオスが、マリアを「神の母」(テオトコス)と呼ぶのは不適切だと説くと、エジプトの人々は猛反発し、キュリロスが反論した。ネストリオスは431年のエフェソス公会議で異端宣告された。テオドレトスはアンティオキア派としてネストリオスを擁護し、キュリロスと互いに反駁を交わした。430年代中盤からキュリロスの一派がモプスエスティアのテオドロスらを弾劾し始めると、これら先人の擁護にも回った。この間に多数の聖書註解や『敬神者列伝』などを著している。

444年にキュリロスが亡くなった後も、その説を先鋭化させたディオスコロスやエウテュケスらに反論し続けた。そのためディオスコロスが皇帝テオドシウス2世に働きかけて主導したエフェソス強盗会議で、テオドレトスはキュロスの主教区から出ることを禁じられた。この頃に『教会史』を執筆している。451年のカルケドン公会議ではディオスコロスやエウテュケスが単性論として異端宣告され、テオドレトスは正統信仰を認められた。ネストリオス説の問題点は認識していたが、最後までネストリオスへの異端宣告には反対し、最終的には同意したという。カルケドン信条のキリスト論には、彼の神学思想が貢献した部分があることが知られている。453年までの生存は確かだが、その後の消息ははっきりせず、没年には諸説ある。

553年の第2コンスタンティノポリス公会議では、キュリロスを駁す著作や一部の説教・書簡が異端とされたが、著作全体が排斥されたわけではなく、ギリシア語の著作が多数現存する。聖書注解、教会史、神学、護教論に及び、古典ギリシア語で平明かつ正確に書き、シリア語も話せたとされる。『教会史』はエウセビオスの記述を継いで428年までを扱い、『敬神者列伝』の26章は柱頭行者シメオンの伝記である。『異端略史』の第五巻は教理史にとって非常に有益な史料とされる。

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