伝記
コンスタンティノス11世パレオロゴスは、1404年に東ローマ皇帝マヌエル2世パレオロゴスの四男として首都コンスタンティノポリスで生まれた。パレオロゴス王家の生まれでありながら、母イェレナの姓であるセルビアの地方領主ドラガシュ家のギリシア語形「ドラガセス」を姓とした。幼い頃から兄弟のなかでも優秀で、兄のヨハネス8世からも将来を期待されたという。兄が西欧へ援助を求めて出発する際には不在中の摂政を任され、母の指導のもとでスルタンのムラト2世と平和条約に署名するなど政治を行った。
1428年には、兄のテオドロス2世、弟のトーマスとともに、ペロポネソス半島に残る帝国の領土であるモレアス専制公領の統治者となった。1429年にはパトラを併合してかつての十字軍国家アカイア公国の勢力を一掃し、領内の整備にも成功し、ギリシア人勢力の希望の星となった。1440年に兄ヨハネス8世が公会議から帰還すると、東西教会の合同に対して首都では非難の声が上がった。1442年には、これに反発する勢力がムラト2世の支援も取り付けて首都を包囲したが、モレアスから駆けつけたコンスタンティノスが包囲軍を外側から攻撃し、撤兵と和平に持ち込んだ。1446年には西欧から来た十字軍と連携してオスマン軍を攻撃したがムラト2世に敗れた。1448年に新たに結成された十字軍もコソヴォで敗れ、コンスタンティノスは首府ミストラスに落ち着いた。
同年に長兄のヨハネス8世が子のないまま死去すると、皇帝は4人の皇弟から選ばれることになった。ヨハネス8世は生前コンスタンティノスを後継者にしようとしていたが、テオドロス2世と弟のディミトリオスが反発して後継者争いとなり、結局1449年1月6日にコンスタンティノスがミストラスで帝位に即いた。3月にコンスタンティノープルに入り、ムラト2世と平和条約を結んだ。1451年にムラト2世が没して後を継いだメフメト2世は当初は友好的だったが、帝国がオスマンの亡命王子オルハンを擁立して撹乱を図ったことに怒り、1452年7月にボスポラス海峡のヨーロッパ側にルメリ・ヒサールを築いて征服の準備を始めた。コンスタンティノスは援軍を得るため、1452年の暮れに東方正教会をローマ・カトリック教会に統合すると宣言したが、国民の猛反発を受け、援軍も得られず、国内に亀裂を生んだだけに終わった。
1453年4月、メフメト2世率いる10万のオスマン軍がコンスタンティノープルを包囲した。メフメトは、皇帝が退去すれば包囲を解き、モレアスなどの領有を認めると求めたとされる。側近にも、一時都を逃れて別の領地で抵抗する案があったが、コンスタンティノスは、帝国なき皇帝として生きることはできず、都が落ちるなら自分も滅びると答え、最後まで戦う道を選んだ。東ローマ軍は2か月にわたって抵抗したが、5月29日未明にオスマン軍が城壁を突破した。コンスタンティノスは皇帝の衣装を脱ぎ捨て、親衛隊とともに市中のオスマン軍のなかに姿を消して最後の抵抗を試み、帝国と運命を共にしたとされる。詳しい最期は不明だが戦死したとみられ、ここに東ローマ帝国は滅んだ。遺体とされるものは埋葬されたが、本人のものかは定かでない。
2度の結婚はいずれも子なく終わり、1428年に結婚したマッダレーナ・トッコは翌年に、レスボス島のジェノヴァ人君主の娘カテリーナ・ガッティルシオは1442年に亡くなった。オスマン支配下のギリシア人の間には、大理石と化して眠る皇帝がいつか復活して帝国を再興するとの伝説が生まれた。今日、皇帝はギリシャの国民的英雄とされる。
同じ年に亡くなった人物
- チャンダルル・ハリル・パシャ (1453年没)
- ウルバン (技術者) (1453年没)
- ムハンマド9世 (1453年没)
- ジョン・ダンスタブル (1453年没)
- ドミトリー・シェミャーカ (1453年没)
同じ地域に関係する人物
- Patriarch Fotios II of Constantinople (1935年没)
- リコメル (393年没)
- バシレイオス2世 (1025年没)
- キラツァ・マリア (1390年没)
- テオドラ (東ローマ女帝) (1056年没)