伝記
ディエゴ・アルマンド・マラドーナは、1960年10月30日にアルゼンチンのブエノスアイレス南部、ラヌースの貧しい家庭に生まれ、2020年11月25日に没したサッカー選手、指導者である。元アルゼンチン代表で、現役時代のポジションはミッドフィールダーとフォワードであった。貧困地区の出身であることから「庶民階級の象徴」とも称され、史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている。
住んでいたのは掘立小屋で、ぬいぐるみやゲームもなかったが、3歳のとき叔父からサッカーボールを贈られ、自宅近くのゴミ捨て場のそばで蹴るようになった。9歳のとき、友人の推薦と練習での動きが認められ、アルヘンティノス・ジュニアーズの少年チーム「セボリータス」に加わった。このチームは、加入後に136試合とも151試合ともいわれる連続無敗の記録を作った。10歳でプロリーグ戦のハーフタイムにリフティングを披露して喝采を浴び、13歳のときには新聞で「ペレの弟」と紹介された。13歳で学校を辞めてサッカーに専念し、1974年にアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチームへ昇格した。「エル・ピベ・デ・オロ(ゴールデンボーイ)」という愛称もこのころに授かった。
1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11か月で初出場し、同年11月14日にプロ初ゴールを決めた。アルヘンティノス時代は166試合に出場して116ゴールを挙げた。1981年にはボカ・ジュニアーズへ移ってリーグ優勝を果たし、1982年にはスペインのFCバルセロナへ移籍した。バルセロナでは、夜遊びやコカイン使用疑惑で会長との関係が悪化した。コパ・デル・レイ決勝後の乱闘騒ぎが決定打となり、クラブは放出を決めた。
1984年6月29日、サッカー史上最高額とされる推定1300万ドルでイタリアのSSCナポリへ移った。お披露目会見には7万人のサポーターが集まり、ヘリコプターからピッチに降り立って、「僕はナポリの貧しい少年たちのアイドルになりたい」と語った。「ナポリの王」と呼ばれた。1986-87シーズンにはクラブ史上初のセリエA優勝とコッパ・イタリアの2冠を達成し、1987-88シーズンにはアルゼンチン人として初めてセリエAの得点王に輝いた。1988-89シーズンには欧州のカップ戦を制し、1989-90シーズンには2度目のセリエA優勝を飾った。
アルゼンチン代表では、1977年に16歳で歴代最年少の出場を果たし、ワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場した。1986年大会ではチームを牽引して優勝に導き、大会MVPに選ばれた。準々決勝のイングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」は、マラドーナを象徴するプレーとして語り継がれている。
一方で、私生活の乱れや薬物の問題も付きまとった。1991年3月にはイタリアサッカー連盟から15か月間の出場停止処分を受け、ナポリを去った。後にナポリは背番号10を永久欠番としている。1994年のワールドカップでのドーピング違反でも、国際サッカー連盟から15か月間の出場停止処分を受けた。1995年10月にはボカ・ジュニアーズへ復帰した。引退後は監督として複数のクラブを歴任し、2008年にアルゼンチン代表監督に就任したが、2010年大会は準々決勝で敗れ、同年7月に解任された。2020年11月25日、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去した。アルゼンチンには「神の子」と崇めるマラドーナ教まで生まれ、ナポリには彼を讃える祭壇がある。
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