伝記
アマドゥ・トゥマニ・トゥーレは、1948年11月4日にフランス領スーダン(現マリ)中部の都市モプティで生まれ、2020年11月10日に没した西アフリカ・マリ共和国の軍人、政治家である。フルネームの頭文字をフランス語で読んだ「アテテ」の愛称で国民に親しまれた。穏やかで控えめな人柄で、貧しい人々の苦しみに敏感だったとも伝えられる。
モプティで初等教育を受け、1966年から1969年にかけてはバマコで中等教育を修めた。卒業後は教師の道に進むはずだったが、のちにマリ軍に入って軍学校に通い、空挺部隊員として昇進を重ねた。ソ連とフランスで訓練を受ける機会も与えられ、1984年には空挺部隊の司令官に就いた。
転機は1991年である。1968年のクーデターで実権を握ったムーサ・トラオレの長期独裁に対する不満が高まり、同年3月22日に民衆蜂起が起きた。その4日後に起きたクーデターでトラオレ政権は倒れ、20年以上にわたる支配が終わった。トゥーレもこのクーデターに加わり、民政移管までの暫定政権の元首である人民救済移行委員会委員長に就いた。暫定政権は25人からなる文民・軍人混成の委員会で、4月には複数政党制を承認した。7月から8月の国民会議では1800人の代表が民主的な憲法案などを承認したとされる。トゥーレは1年後の民政移管を公約し、民主的な新憲法の制定に力を注いだ。北部のトゥアレグ系の運動との武力紛争も、1992年4月に結ばれた国民協定によって収めたという。1992年には国民投票や議会選、大統領選を実施したが、自身は立候補しなかった。そして当選したマリ民主同盟のアルファ・ウマル・コナレへ権限を円滑に委ねたため、当時は「民主主義の戦士」と呼ばれた。
暫定政権の元首を退いたのちも軍の階級は保ち、各地の開発活動や、ギニア虫症の根絶計画などの人道面の仕事に力を注いだとされる。1993年には子どもたちのための財団をマリで始め、1995年には五大湖地域の危機の調停役に指名され、1996年には世界保健機関からアフリカのポリオ根絶を目指す国際委員会の運営を任された。国際的には紛争の調停役としても知られ、2001年には中央アフリカでパタセ政権に対して起きたクーデターに際し、国連のコフィー・アナン事務総長の特使として派遣された。同年に軍を退役して政治家を志し、翌2002年の大統領選に無所属で立候補した。第1回投票で過半数を得た候補がなく、財務相などを歴任したスーマイラ・シセとの決選投票が5月12日に行われ、64.35%の得票率で当選した。6月8日に第4代大統領(現行憲法下では2代目)に就任している。
トゥーレ政権は無所属の首相を置き、閣僚には様々な政党の人物が加わる変則的な構成で、児童基金の設立などの実績を残した。2007年4月の大統領選では第1回投票で71.20%を得て再選され、他の候補は不正だと主張したが、諸外国の選挙監視団は自由かつ公正だったとした。同年12月には中国の援助で新しい大統領府が建設された。2012年3月21日に軍の一部がクーデターを起こして大統領府を制圧すると、トゥーレは脱出したと報じられ、4月8日に辞任を表明、4月18日にセネガルへ亡命した。2017年にマリへ帰国し、2020年11月、バマコで緊急手術を受けたのち、治療のため入院したイスタンブールの病院で72歳で死去した。
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