HISTORICAL PERSON · 2020年没

ルース・ベイダー・ギンズバーグ

アメリカの法律家。1993年にクリントン大統領に指名されて以来27年間、連邦最高裁判事を務め、性差別の撤廃を求めるリベラル派の代表的存在となった。

生涯
2020年没
死亡地
アメリカ合衆国(ワシントンD.C.)
出生地
アメリカ合衆国(ブルックリン区)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ワシントンD.C.)

伝記

ルース・ベイダー・ギンズバーグは、1933年3月15日に生まれ、2020年9月18日に没したアメリカ合衆国の法律家である。1993年にビル・クリントン大統領に指名されてから死去するまで27年間、連邦最高裁判事を務めた。米国史上2人目の女性の最高裁判事であり、性差別の撤廃などを求めるリベラル派判事の代表的存在として、大きな影響力を持った。

ニューヨーク市ブルックリンに生まれた。父はオデッサ出身のユダヤ系ウクライナ人移民、母はユダヤ系オーストリア人移民の子だった。幼いときに姉をがんで亡くし、大学進学の直前には母もがんで亡くなっている。生まれたときの名はジョーン・ルース・ベイダーで、結婚に際して夫の姓に改めるとき、旧姓をミドルネームに入れて今の名にした。母は非常に知的な女性で、「淑女たれ、自立せよ」という教えを重んじて娘を育てた。怒りなどの感情に流されるなという母の助言は、徹底的に準備するという法律家としての流儀に影響を与えたとされる。

コーネル大学に進み、在学中にブラインドデートで、のちに夫となるマーティンと出会った。1954年に卒業し、その翌月に結婚した。1955年に娘が生まれ、1956年にマーティンも在籍するハーバード大学ロースクールへ進んだが、500人を超える学生のうち女子学生は9人だった。マーティンが卒業してニューヨークで職を得たため、コロンビア大学ロースクールに編入して法学位を得た。この間にマーティンががんを発症し、ルースは幼い子の世話と夫の看病をしながら学業を続け、最優等生だけが選ばれる法律雑誌の編集委員も務めた。両校で極めて優秀な成績を収めたものの、連邦高等裁判所やニューヨークの法律事務所には女性であることを理由に受け入れられず、卒業後は地区裁判所判事のもとでロー・クラークとして働いた。

1963年にラトガース大学ロースクールで教壇に立ち、1972年にはコロンビア大学ロースクールで女性として初の常勤教員となった。1973年にはアメリカ自由人権協会のニュージャージー支部で法律顧問に就き、性差別をめぐる数多くの訴訟で原告を代理した。憲法修正第14条を根拠に女性差別を違憲とする判決を連邦最高裁で勝ち取るなどして、全国的な名声を得た。1980年にジミー・カーター大統領からコロンビア特別区巡回区連邦控訴裁判所の判事に指名され、意見が鋭く対立する事件でも法的な中立性を守る姿勢で評価された。夫は家事と育児を分担し、判事任命の際には高給の弁護士の職を捨てて共にワシントンへ移った。

1993年、バイロン・ホワイト判事の辞任を受けて後任に推薦された。クリントン大統領は当初、政治家の指名を探っていて乗り気ではなかったとされるが、面接でギンズバーグが母や夫のこと、女性の権利に尽くした半生を静かに語り、強い印象を残したと言われる。上院は96対3で任命に同意し、1993年8月10日に宣誓して就任した。保守派のアントニン・スカリア判事とは信念が大きく異なったが、私的には親しい友人だった。

2009年に膵臓がんと診断されたが引退せず、2018年12月には転倒して肋骨を3本折り、治療の際に見つかった肺の腫瘍の摘出手術を受け、2019年2月に復帰した。入退院を繰り返しながら執務を続け、2020年9月18日、転移性膵臓がんの合併症のため87歳で死去した。後任にはエイミー・コニー・バレットが指名され、10月26日に上院が52対48で承認した。「RBG」の愛称で呼ばれ、2018年には記録映画『RBG 最強の85才』や伝記映画『ビリーブ 未来への大逆転』が公開された。

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