伝記
バハラーム5世は、サーサーン朝の君主で、在位は420年から438年までである。バハラーム・グールとも呼ばれ、「グール」は野生のロバ、オナガーを意味し、その狩人だったことや、強さと勇気の象徴であることが由来とされる。ヤズデギルド1世の息子で、400年頃に生まれ、幼いころからサーサーン朝の国外、ラフム朝の主都ヒーラの宮廷で、ヌゥマーン1世の庇護を受けて育った。父との意見の不一致で追放されたのではないかという説もある。ヒーラでは、サーサーン朝の宮廷から派遣された教師について、法律、弓術、馬術を学んだ。
シャープール2世の死後、貴族と神官団は、王権を軽んじて影響力を増し、複数の王を擁立し、廃位し、殺害した。420年1月21日にはヤズデギルド1世も殺害された。彼らはその息子たちの即位を阻もうとし、長男のシャープールはシャープール4世として即位したが、すぐ貴族に殺され、ホスローが王に擁立された。アラビア砂漠にいたバハラームは、父の死の知らせを受けて貴族の決定に反発し、ムンズィール1世の軍事的な支援を得て、大軍とともにクテシフォンへ向かった。そして父のような統治はしないと貴族たちに約束した。『シャー・ナーメ』の伝説では、王冠と王の衣装を二頭のライオンの間に置き、獣を倒して取り戻した者を王とすると持ちかけ、ホスローが手を引く中で、バハラームは試練を乗り越えて王位を得たという。彼は貴族に不信を抱き、ゾロアスター教の神官団の支援を選び、貴族ではなく神官長の手によって即位した最初のサーサーン朝の王となった。
統治は、神官団の要請を受け、キリスト教徒が寺院を攻撃したことへの報復として、組織的な迫害を行うことから始まった。迫害された人々は東ローマ帝国に逃れ、皇帝テオドシウス2世は、亡命者の送還ではなく宣戦を選んだ。当時すでに、サーサーン朝がローマ人の金の採掘者を送り返さず、商人の財産を押収するなどの軋轢があった。421年、東ローマ軍がアルメニアへ入り、ペルシアの指揮官ナルセを破ったが、バハラーム自身が率いる軍の進軍を前に包囲を解いた。422年に、双方が戦前の状態に戻し、信仰の自由を保証する平和条約が結ばれた。
東方では、メルヴがエフタルに占領され、バハラームは歳幣を送って侵入を防いでいた。東ローマと和平を結ぶと、メルヴを奪還し、エフタルの支配者を殺害して多くの富を奪った。アムダリヤ川に記念碑を建て、これをサーサーン朝の東の国境と示した。427年までに東方領域を確保し、兄弟のナルセを東部の総督としてバルフに置いた。戦利品の大部分は、アフラ・マズダーへの感謝として、タフテ・ソレイマーンの神殿に寄進した。アルメニアでは、王が不在となっていたため、アルサケス朝の血筋のアルタクシアス4世を王に据えたが、惰弱だったため貴族が排除を請願し、428年にアルメニアは併合され、太守の統治下に置かれた。この併合には、アルメニア教会の総主教が強く反対した。
バハラームは、438年、狩りの最中に死去したという言い伝えがあり、王位は息子のヤズデギルド2世が継いだ。狩りへの愛着、音楽家たちへの激励、祝宴での税や公的債務の免除などの逸話から、イラン史で最も有名な王の一人として記憶される。ニザーミーのロマンス叙事詩『ハフト・パイカル』では主人公で、七人の王女を妻とする。一方で、彼の治世は、カワード1世による復活まで続く、サーサーン朝の衰退の始まりとみなされることもある。
同じ年に亡くなった人物
- ペルシオンのイシドーロス (438年(推定))
同じ地域に関係する人物
- クトゥブッディーン・シーラーズィー (1311年没)
- イスマーイール1世 (1524年没)
- アフマド (ジャライル朝) (1410年没)
- マフムード・シャベスタリー (1320年没)
- Al-Baydawi (1286年没)