伝記
クトゥブッディーン・シーラーズィーは、1236年10月にシーラーズで生まれ、1311年2月7日にタブリーズで没した、13世紀ペルシアの博学者である。正式な名はクトゥブッディーン・マフムード・ブン・マスウード・ブン・ムスリフ・シーラーズィーといい、哲学、医学、天文学をはじめ多くの分野で著作を残し、のちに「大学者」を意味する「アッラーマ」と呼ばれた。家系は医者であり、スーフィー(神秘主義者)でもあった。父ディヤーウッディーン・カーザルーニーはシーラーズでムザッファリー病院を営む医師で、クトゥブッディーンは幼いころから父について医学を学んだ。
14歳のとき父が亡くなると、跡を受けて正式に病院の医者となった。医学を究めようと、イブン・スィーナーの『医学典範』を精読し、叔父カマールッディーン・カーザルーニーら3人の権威の指導を受け、先人たちの注釈を読みあさったが、この書について抱いた疑問は解けなかった。24歳のとき、シーラーズを離れて修行の旅に出た。マラーガに向かって、天文台の建設にあたっていたナスィールッディーン・トゥースィーに師事し、その師が招いた学者たちからも多くを学んだ。『医学典範』の理解は進んだものの、不明な部分は残った。
そこで再び旅に出て、ホラーサーンやイラクの諸地方を渡り歩いた。この間の足跡は詳しくわかっておらず、ジュワインのマドラサで教えたとも、カズヴィーンで法学を学んだとも、イスファハーンに向かったともいう。その後はバグダードのニザーミーヤ学院に寄宿し、イルハン朝の宰相シャムスッディーン・ジュワイニーの厚遇を受けたとされる。次にルームの都コンヤに向かった。ルームでは師に就いてハディースを学び、神秘主義詩人ジャラールッディーン・ルーミーと交流したともいわれる。1274年に師が亡くなると、後任としてスィヴァスやマラティヤの法官(カーディー)を務めた。スィヴァスに腰を落ち着け、法官と法学教師の務めをこなしながら、精力的に執筆した。
1282年、イルハン朝の第3代アフマド・テクデルがマムルーク朝のスルターン、カラーウーンへ送る使節団の一員となり、エジプトへ赴いた。ここで『医学典範』の優れた注釈などの資料を手に入れて研究し、理解できなかった部分をすべて解決して、長年の目標を果たした。帰国後、おそらくルームで『医学典範』の注釈の執筆に着手した。のちにアルグンに引き立てられ、イルハン朝の都タブリーズへ移って、亡くなるまでそこを中心に著述を続けた。死の直前まで、『医学典範注釈』の推敲をしていたという。墓所はタブリーズのチャランダーブ墓地にある。
代表作は、ペルシア語で書かれた最大の哲学百科全書『王冠の真珠』で、西ギーラーンの太守に献呈された。数学、特に音楽理論に多くを割いており、後世に数学者、音楽理論家としても評価された理由とされる。論理学の部分だけが自身の執筆で、そのほかは先行する良書をペルシア語に訳したものである。『医学典範注釈』は、ガザン・ハンの宰相サアドゥッディーン・ムハンマド・サーワジーに献呈され、『サアドへの献呈書』とも呼ばれる。この注釈は発表当時の学者たちから賞賛されたという。天文学の著作も幅広い影響を与え、イスラーム世界の理論天文学の書の多くに引用されている。ジュワイニーに献呈した『天文学知識の究極的理解』や、水星と月の運行の新しい理論を示した『シャーへの贈り物』などがある。機知に富んだ逸話が多く伝わるが、師トゥースィーへの不遜な態度や、ラシードゥッディーンとの反目の話には、年代や記録と食い違うものがある。
同じ年に亡くなった人物
- ダヴィド8世 (1311年没)
- マルグリット・ド・ブラバン (1311年没)
- ピエトロ・グラデニーゴ (1311年没)
- マンラーイ (1311年没)
- ジャウメ2世 (マヨルカ王) (1311年没)
同じ地域に関係する人物
- フレグ (1265年没)
- Iskandar Beg Munshi (1634年没)
- ウズン・ハサン (1478年没)
- シャイフ・ウヴァイス (1374年没)
- イスマーイール1世 (1524年没)