伝記
アブドゥッラー・イブン・ウンム・マクトゥームは、預言者ムハンマドの教友の一人で、636年に没した人物である。メッカに生まれ、クライシュ族のアーミル氏族に属した。父はカイス・イブン・ザイド、母はアーティカ・ビント・アブドゥッラーで、母がウンム・マクトゥーム(隠された者の母)という称号で知られたことが、彼の名に付いた呼び名の由来とされる。母方の縁で、ムハンマドの最初の妻ハディージャの従兄弟にあたる。イスラーム以前の名はフサインだったとも伝えられ、改宗後にムハンマドからアブドゥッラーの名を与えられたという。ただし本名については、メディナの学者はアブドゥッラー、イラクの学者はアムルと記しており、伝承は一致しない。
彼は盲目であった。生まれつきだったとする伝承と、幼いころに視力を失ったとする伝承とがあり、母の称号はそこから生じたともいわれる。メッカで最初期にイスラームを受け入れた一人で、ムハンマドがメッカの有力者たちに入信を説いていたとき、教えを乞うて近づいたことで知られる。ムハンマドは有力者たちへの説得を中断されて不快な表情を見せ、そのことを戒める形でクルアーンの「アバサ」章の冒頭の節が下されたと、スンナ派の伝承は語る。これに対しシーア派は、この節がムハンマドを戒めたものだとは認めず、その伝承の信憑性も受け入れていない。この出来事の後、ムハンマドは彼に「わが主が私を戒めるに至らしめた人よ、よく来た」という趣旨の言葉で挨拶したと伝えられる。
メディナへの移住では、ムスアブ・イブン・ウマイルとともに、あるいはその直後に移り、住民にクルアーンを教えたとされる。ブハーリーは、この二人を最初にメディナへ着いた移住者とみなしている。メディナではまずスッファに住み、のちにダール・アル=クッラーと呼ばれる家に移ったという。ビラール・イブン・ラバーフとともにムハンマドのムアッズィン(礼拝の呼びかけ役)を務め、ビラールが夜明け前の最初の呼びかけを行い、彼は夜明けの到来を知らされてから二度目の呼びかけをしたといわれる。ムハンマドが遠征などでメディナを離れるときには、町の運営と留まる信徒たちの礼拝の指導を任された。その回数は伝承によれば13回にのぼる。
戦いへの参加を望む気持ちも強かった。クルアーンのナサー章95節に関わる逸話では、ムハンマドが「戦いに出ず家に座す信者と、神の道に奮闘する者とは等しくない」という節を書き取らせていたところへ彼が訪れ、力があれば必ず聖戦に加わるのにと訴えたという。その直後に、身体に障害のある者を除くという句が下された。それでもなお軍に加わることを望み、旗を預けてほしいと願い出たと伝えられる。第2代カリフのウマルは、盲目の彼にカーディシーヤの戦いへの参加を許した。彼は636年のこの戦いで、鎧を着け、黒い旗を掲げたとされる。最期については、戦場で殉教したとも、傷を負ってメディナに戻り、その傷がもとで亡くなったともいわれる。
彼の事例は、障害のある人が町の運営を一時的に担うこと、礼拝の導き手となること、望めば遠征に加わること、集団礼拝への出席、必要がある場合に番犬を飼うことの許可などに関するイスラーム法の規定が整えられる際の根拠になったとされる。こうして彼の歩みは、教えを学ぶ熱意と、メディナの共同体での務めの両面から、後の時代まで語り継がれることになった。
同じ年に亡くなった人物
- クウィチェルム (ウェセックス王) (636年没)
- テオドロス (636年没)
- ロスタム・ファルロフザード (636年没)
- アリオアルド (636年)
- イクリマ・イブン・アビー・ジャハル (636年)
同じ地域に関係する人物
- ハディージャ・ビント・フワイリド (619年没)
- ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー (2019年没)
- アスマー・ビント・アビー・バクル (692年没)
- マシャイル・ビント・ファハド・アル・サウード (1977年没)
- マンスール (775年没)