伝記
デイヴィッド・ロックフェラーは、1915年6月12日にニューヨークのマンハッタン、西54丁目で、五男一女の末っ子として生まれたアメリカの銀行家、実業家、慈善家である。祖父は石油王のジョン・D・ロックフェラー、父はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアで、ロックフェラー家の第3代当主にあたる。生家は9階建ての大邸宅で、当時は市内で最大の個人邸宅だったとされ、のちに一家の寄付によって近代美術館の建物になった。子どものころは一族の広大な地所ポカンティコで過ごし、探検家のリチャード・バード提督や飛行家のチャールズ・リンドバーグといった訪問者が出入りした。
1936年にハーヴァード大学を優秀な成績で卒業し、ヨーゼフ・シュンペーターに師事して、卒業論文では英国のフェビアン協会を扱った。その後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学して修士号を取得し、同じ時期に留学していた、のちの大統領ジョン・F・ケネディと知り合った。さらにシカゴ大学で経済学の博士号を取り、博士論文は、シュンペーター、ハイエク、フランク・ナイト、そして祖父の影響を受けていた。1940年9月7日にマーガレット・マクグラスと結婚し、2男4女をもうけたが、次男は2014年6月13日に自ら操縦する自家用機の事故で亡くなり、先立たれた。
ニューヨーク市長フィオレロ・ラガーディアの秘書を18か月ほど務めたあと、第二次世界大戦中はアメリカ陸軍に入り、1945年に大尉に昇進した。北アフリカとフランスで軍の情報部門に勤務し、パリのアメリカ大使館で武官補佐を7か月務めた。1946年にチェース・ナショナル銀行に入り、1961年にチェース・マンハッタン銀行の会長に就任し、1969年から1981年まで最高経営責任者を務めた。海外に銀行業務を広げ、世界各国の政界や財界に人脈をつくり、民間外交を活発に行った。東西冷戦のさなかの1973年にはソ連に赴いて同国で初のアメリカの銀行支店を、中国では同国初のアメリカのコルレス銀行を設立した。三極委員会も創設している。ロックフェラー家のスローガン「貿易による世界平和」を掲げ、1966年8月からマンハッタンで世界一の高さのビルの建設を始めた。1973年4月に完成した双子のビルが、ワールド・トレード・センターである。
日本との関わりも深く、1972年にビルダーバーグ会議への日本の参加を打診したが断られたため、日本が加わる会議の創設をブレジンスキーに提案し、宮沢喜一や大来佐武郎らが招かれた勉強会を経て、翌1973年10月に三極委員会が生まれた。1978年にはジャパン・ソサエティーの名誉会長となり、1991年に勲一等瑞宝章を受け、1994年には訪米した天皇を自邸に招いた。1989年にロックフェラー・センターが三菱地所に売却された際には、米国民の批判の矢面に立った。
昆虫学、特に甲虫類の研究と収集が趣味で、事務所には15万人の名刺を収めたローロデックスがあり、世界の要人4万人と親交のある「銀行外交官」と呼ばれた。2000年にはロックフェラー・センターの最終的な売却を行い、2005年には近代美術館に1億ドル、ロックフェラー大学に5千万ドルを寄付した。2007年に回想録の日本語版が出版され、来日している。ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの子と、初代の孫のうち最後まで存命で、2015年6月12日に百歳を迎えた。2017年3月20日の朝、ニューヨーク州の自宅で睡眠中にうっ血性心不全のため亡くなった。101歳であった。
同じ年に亡くなった人物
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- ウィリアム・ボーモル (2017年没)
- リュドミラ・ベルソワ (2017年没)
- アンヌ・ヴィアゼムスキー (2017年没)
- サム・パノプロス (2017年没)
同じ地域に関係する人物
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- ハーバート・フーヴァー (1964年没)
- クルト・ヴァイル (1950年没)
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