HISTORICAL PERSON · 1950年没

クルト・ヴァイル

ドイツの作曲家。ブレヒトが台本に協力した『三文オペラ』で知られ、演劇やオペラ、ミュージカルの作曲にも同等の力を注いだ。

生涯
1950年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
ドイツ連邦共和国(デッサウ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

クルト・ヴァイルは、1900年3月2日にドイツのデッサウでユダヤ人の家系に生まれた作曲家である。父は礼拝で歌をつとめるハザンであった。20歳のときにベルリンでフェルッチョ・ブゾーニに師事し、『交響曲第1番』を作曲した。その後、グスタフ・マーラー、アルノルト・シェーンベルク、イーゴリ・ストラヴィンスキーの影響を受けた『弦楽四重奏曲』や『ヴァイオリンと管楽のための協奏曲』で成功を収めたが、関心はしだいに劇場音楽や声楽へと向かった。1920年代には一幕物のオペラ『主役』(1926年)、『ロイヤル・パレス』(1927年)、『ロシア皇帝は写真を撮らせ給う』(1928年)などを作曲している。

転機となったのは、劇作家ベルトルト・ブレヒトとの共同作業である。1927年にはブレヒトのテクストによるソングシュピール『マハゴニー』を書き、1928年にはブレヒトの台本によるオペレッタ『三文オペラ』の音楽を手がけた。これは、ジョン・ゲイとヨハン・クリストフ・ペープシュの『乞食オペラ』(1727年)を作り直した作品で、ヴァイルの最も有名な歌「マック・ザ・ナイフ」を含む。のちにジャズで数多くカバーされ、最も知られているのは1959年のボビー・ダーリンのヒット曲である。1920年代後半から1930年代初頭にかけて、彼の劇場音楽や声楽作品は大衆の間で大流行し、アルバン・ベルク、ツェムリンスキー、ダリウス・ミヨー、ストラヴィンスキーらからも称賛を受けた。ブレヒトとの合作は成功したものの、目論見とは異なる結果に終わり、二人は決別した。妻で女優のロッテ・レーニャは、ヴァイルが「『共産党宣言』を音楽に合わせる」ことはできなかったと語っている。

しかしユダヤ人であったため、ナチスから危険視されるようになった。『交響曲第2番』や『マハゴニー市の興亡』組曲(1930年)の演奏会、『人質』(1932年)、『鏡の湖』(1933年)などの上演は、ナチ党員が組織した暴動や暴力的な干渉で中断を余儀なくされた。1933年にパリへ逃れ、ブレヒト台本のバレエ『七つの大罪』を作曲した。1934年には最後の純器楽作品となる『交響曲第2番』を完成させ、ブルーノ・ワルターの指揮でニューヨークとアムステルダムで演奏された。

1935年にアメリカ合衆国へ移住し、1943年に市民権を取得した。ヨーロッパでのスタイルを捨ててポピュラー音楽を研究し、数多くのミュージカルを残している。『闇のなかの女』と『ラブ・ライフ』の間には、アメリカのミュージカルの発展に及ぼした強い影響力を見ることができる。商業的であると同時に芸術的にも成功するアメリカ流の歌劇を模索し、最も興味深い試みとされるのがエルマー・ライスの戯曲に基づく『街の風景』である。ドイツ時代より評価は低いとされる一方、ブロードウェイでの仕事は多くの人に尊敬されている。レーニャとは1926年に結婚して1933年に離婚し、1937年に再婚した。

1950年、50歳の誕生日を迎えた直後の4月3日、ニューヨークで心臓発作のため死去した。墓はニューヨーク州ハヴァーストローにあり、墓石には前年に作曲したミュージカル『星空に消えて』の歌「渡り鳥」の楽譜が刻まれている。死後はレーニャがクルト・ヴァイル財団を組織して彼の音楽を広めた。

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