伝記
ハーバート・クラーク・フーヴァーは、1874年8月10日にアイオワ州ウェストブランチのクエーカー教徒の家庭に生まれた第31代アメリカ合衆国大統領である。幼くして両親を亡くし、オレゴン州ニューバーグに移った。11歳だった1885年の夏、おばの手製のごちそうの入ったかごを持ち、2枚の10セント硬貨を衣服に縫い込んで、列車で西のオレゴンへ向かった。待っていたのは、医者で教育長のおじジョン・ミンソーンで、フーヴァーは彼を「表面上は厳しいが、全てのクエーカー信者同様に底では親切だった」と回想している。オレゴンの6年間で独立独行を覚え、おじの会社の使い走りをしながら簿記とタイピングを身につけ、夜はビジネススクールに通った。教師の影響でディケンズやスコットの小説に夢中になり、『デイヴィッド・コパフィールド』は生涯のお気に入りだった。
1891年秋に開校したスタンフォード大学の第1期生として入学した。野球やフットボールのチームの運営、クリーニング店や講義仲介業の経営で注目を集め、学生自治会の会計係に選ばれて、2000ドルの負債を返済した。地質学を専攻し、のちに妻となる銀行家の娘ルー・ヘンリーとは同じ研究室で出会い、1899年に結婚して2人の息子をもうけた。1895年に卒業するとオーストラリアの鉱山で技師として働き、続いて清の鉱山の開発に携わった。1900年6月には天津の租界で義和団に1か月も包囲され、攻撃を受けたが、バリケードの建設を指揮し、中国の子どもを命がけで救ったこともあった。ロンドンに拠点を置く鉱山会社で事業を展開した彼は、瞬く間に裕福な鉱山技師となった。1907年から1912年には、ルーとともに、1556年出版の技術論文であるアグリコラの書を翻訳した。
1914年に第一次世界大戦が始まると、ベルギー救済委員会を組織してその委員長を務め、占領下のベルギーに食糧を送った。1917年にアメリカが参戦すると、ウィルソン大統領から食糧管理局長に任命され、「食糧独裁者」と呼ばれた。戦後はアメリカ救済局を率い、東欧やロシアの飢えた数百万人に食糧を供給した。ハーディングとクーリッジの下で商務長官を務め、「商務長官兼全省庁の次官」と称されるほど活動的だった。1921年には上院の共和党員の反対を退けて、飢饉に苦しむソ連やドイツへの食糧支援を実施し、共産主義ロシアを助けるのかと問われると、「2千万の人が飢えている。彼らの政治が何であっても彼らを食べさせるべきである」と答えた。
1928年の大統領選挙で民主党のアル・スミスを大差で破り、「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を」というスローガンで圧勝した。1929年3月4日の就任演説で、貧困に対する最終的な勝利の日が近いと語ったが、その年の10月、株価の暴落から世界恐慌が始まった。政府の介入を最小限に抑える立場をとり、金本位制の維持に固執した。復興金融公社の創設のような対処策も講じたが、保護貿易のスムート=ホーリー法は恐慌を深めた一因との指摘がある。戦債の返済を1年間猶予する「フーヴァー・モラトリアム」も発表したが、景気は回復しなかった。退役軍人の恩給要求デモの鎮圧では強い弾圧を招いて、管理能力を問われた。1932年の選挙でフランクリン・ルーズベルトに40州以上で敗れる大敗を喫し、1933年に退任した。その後はスタンフォード大学にフーヴァー研究所を創設し、ニューディール政策を批判した。戦後は、トルーマンに派遣されて日本やドイツの食糧事情を視察し、1964年10月20日に没した。
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