伝記
岡野俊一郎は、1931年8月28日に東京で生まれたサッカー選手であり、指導者、スポーツ界の要職を務めた人物である。生家は上野の和菓子の老舗「岡埜栄泉」で、のちに五代目を継いだが、甘い物は苦手だったという。3歳で水泳を始め、4歳でスキーを履き、戦前の明治神宮大会には水泳の自由形で東京都代表として出場した。戦時中、家族は空襲を避けて群馬県に疎開したが、本人は学校に通うため東京に残った。1946年に旧制の東京都立第五中学校に入り、同級生に誘われて校技のサッカーを始めた。その後、小石川高校を経て東京大学に入り、ア式蹴球部に入部した。1953年には全日本大学サッカー選手権で優勝し、西ドイツでの国際学生スポーツ週間に学生選抜の一員として派遣された。1955年には日本代表に選ばれ、国際Aマッチに2試合出場している。1957年に東京大学文学部心理学科を卒業した。
選手としての経験は高校と大学までだが、その後は長く指導者として日本代表にかかわった。1961年にユース日本代表の監督としてアジアユース選手権に参加し、同じころ西ドイツで3か月のコーチ研修を受けた。帰国後の1962年に日本代表のコーチとなり、監督の長沼健のもとで、ドイツ人コーチのデットマール・クラマーの通訳も兼ねた。語学が堪能だったため、2つの大役をこなしたのである。長沼は、ベンチで岡野を隣に座らせるために、選手登録を1名減らしたほどだったという。1964年の東京オリンピックで日本代表はベスト8に入った。1968年のメキシコ・オリンピックでは、選手の登録枠が18人に削られたことに強く反対したが、日本オリンピック委員会の決定は覆せず、もしものときの「最後の1人」として選手登録された。そのため、登録上はコーチのまま銅メダルを得ることになった。クラマーとは、彼が日本を離れてからも交流が続き、「俺とお前はブルーダー(兄弟)なんだ」と言われていたという。1970年に長沼の後任として日本代表監督に就任したが、1971年に翌年のミュンヘン・オリンピックの出場を逃して辞任した。
1974年に日本サッカー協会の理事に就き、まもなく日本オリンピック委員会の常任理事にもなって、1977年には総務主事を務めた。1980年のモスクワ・オリンピックの不参加問題では、参加の是非を問う総会の採決に委員長の柴田勝治とともに加わらず、成り行きを見守った。1981年には、友人のホルスト・ダスラーに助力を頼み、1985年のユニバーシアード神戸大会からサッカーが正式競技になった。1990年に国際オリンピック委員会の委員となり、長野冬季オリンピックの招致と成功にも携わった。1998年には日本サッカー協会の第9代会長に就任し、2002年のワールドカップを成功させた。ほかに東アジアサッカー連盟の初代会長を務め、2003年には日本サッカーミュージアムの初代館長に就いた。2005年には日本サッカー殿堂の第1回の表彰者に選ばれ、2012年にはサッカー界から初の文化功労者となった。2011年に定年で国際オリンピック委員会を退いた。2017年2月2日、東京都内の病院で肺癌のため、85歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・サーティース (2017年没)
- ヴィタリー・チュルキン (2017年没)
- ジェイムス・マンチャム (2017年没)
- ブレント・ブリスコー (2017年没)
- ユースト・ファン・デル・ヴェストハイゼン (2017年没)
同じ地域に関係する人物
- 石川啄木 (1912年没)
- 谷口ジロー (2017年没)
- 高木貞治 (1960年没)
- アドルフォ・ニコラス (2020年没)
- 井伊直政 (1602年没)