HISTORICAL PERSON · 2016年没

ジョージ・マーティン

英国の音楽プロデューサー。ビートルズのほぼ全作品を手がけ「5人目のビートルズ」と称された。1965年にAIRを設立し、1996年にナイトの称号を受けた。

生涯
2016年没
死亡地
イギリス連邦(オックスフォードシャー / コールズヒル)
出生地
イギリス連邦(ハイバリー)
出典
世界地図
イギリス連邦(オックスフォードシャー)

伝記

ジョージ・ヘンリー・マーティンは、1926年1月3日にロンドンのハイベリーで生まれたイギリスの音楽プロデューサーである。ビートルズのほぼ全作品を手がけ、「5人目のビートルズ」と呼ばれた。6歳のとき、家にピアノが来たことで音楽に興味を持ち、8歳からピアノを習ったが、母とピアノ教師の折り合いが悪く、わずか8回の授業で終わった。のちに本人は、ピアノは独学で覚えたと語っている。幼いころは、いくつもの学校に通った。第二次世界大戦が始まると、家族とともにウェリン・ガーデン・シティに避難し、のちにブロムリーの文法学校に入った。「次のラフマニノフになる」という空想を抱いていたが、音楽を職業には選ばず、一時は測量の助手をし、戦時省の臨時職員として書類の整理や茶くみをした。

1943年、17歳でイギリス海軍の航空隊に入り、操縦士となり士官に任官した。一度も戦闘に加わらないまま、1947年に除隊した。退役軍人への補償金を使い、1947年から1950年までギルドホール音楽演劇学校に通い、オーボエとピアノを専攻して、クラシックの基礎を学んだ。コール・ポーターなどのポピュラー音楽にも興味を持った。在学中の1948年1月3日に、最初の妻シーナ・チザムと結婚し、二人の息子をもうけた。のちの1966年にはジュディ・ロックハート=スミスと再婚し、息子のジャイルズらをもうけた。卒業後、BBCの音楽部門を経て、1950年に、EMIのアビー・ロード・スタジオに就職した。

1955年に、パーロフォン・レーベルの責任者になった。当時は、EMIの中で重く見られていなかったレーベルで、初めは古典やバロックの音楽、各地の民俗音楽などを録音した。やがて喜劇や面白い歌のレコードを数多く手がけ、実績を積んだ。1950年代にはピーター・セラーズと組んで、いくつものヒットを生んだ。スパイク・ミリガンとも親友になった。映画『戦場にかける橋』を茶化した作品を作った際には、映画会社が名の使用に異を唱えたため、すでに録音していた曲中の「クワイ」という言葉の「K」を削って、「ワイ河」に作り直したという逸話がある。

1962年、デッカ・レコードのオーディションに落ちたビートルズを、マネージャーのブライアン・エプスタインの売り込みで受け入れた。デモテープの第一印象は「ひどかった」というが、メンバーに会う前にレコーディングを求めた。同年6月6日にEMIのスタジオに彼らを呼んで演奏を聴き、デビュー曲を録音した。「実際に会った途端に恋をしてしまった」と語り、契約を結んだ。緊張していたジョージ・ハリスンに、何か気に入らないことはあるかと尋ねると、「あなたのネクタイが気に入らないね」と答えたという。ビートルズの曲にある、クラシックの手法やオーケストラの編曲、複雑な音響効果の多くは、マーティンとの共同作業によるものだった。「ペニー・レイン」のピッコロ・トランペットのソロは、その代表例である。1965年にEMIを辞め、同年にAIRを設立した。ジェフ・ベックやチープ・トリック、ポール・マッカートニーらのプロデュースも手がけた。1997年に、エルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」が、彼にとって30曲目の全英1位となった。

1999年、聴力の衰えを理由に、プロデューサーを引退した。最後のプロデュースは、息子のジャイルズと手がけた、2006年発売のビートルズのアルバム『ラヴ』である。1996年に、音楽界への貢献でナイトの勲位を授けられた。2016年3月8日、コールズヒルの自宅で亡くなった。

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