伝記
ムスタファ1世は、オスマン帝国の第15代皇帝である。父はメフメト3世、母はその夫人ハリメ・スルタンで、アフメト1世の弟にあたる。生年は1592年とも1601年か1602年ともされ、一致していない。1603年に父が死去して兄のアフメト1世が即位した。それまでは、新しいスルタンが即位すると兄弟を殺す慣習があり、父メフメト3世も即位の際に19人の兄弟を殺害していたが、ムスタファは殺されず、幽閉されるにとどまった。幽閉中には、母のハリメや祖母のサフィエ・スルタンと会うこともあったという。
兄の治世の間、1603年から1617年までの14年にわたって幽閉された。生かされた理由としては、兄にもしものことがあった場合の備えであったことや、ムスタファが精神的な問題を抱えていたとみられたことが挙げられる。父の兄弟殺しが人々の悲観を招いたことも、兄弟殺しが避けられた一因とされ、イスタンブールの世論は政治家たちが無視できない要素となっていた。その後、殺されそうになったこともあったが、アフメト1世の妻キョセム・スルタンの取りなしによって助かった。キョセムには息子のメフメト皇子がおり、兄弟殺しの伝統が復活すれば、将来、兄のオスマンの即位時に殺されるおそれがあったためである。
1617年にアフメト1世が死去すると、彼の皇子たちにも即位の資格があり、全員がトプカプ宮殿に住んでいた。イスラム長老エサト・エフェンディや大宰相代理ソフ・メフメト・パシャらの宮廷派閥は、アフメトの息子オスマンの代わりにムスタファを即位させることを決めた。ソフ・メフメト・パシャは、オスマン皇子は幼く、不人気になると主張し、黒人宦官長ムスタファ・アガは、ムスタファの精神的な問題を理由に反対したが、前者の意見が採られた。この即位により、スルタンの継承の法則が変わり、初めて息子ではなく兄弟に位が引き継がれた。息子の精神状態がよくなかったこともあり、母のハリメ・スルタンは母后として大きな力を振るった。
定期的な社会的接触が精神的健康を改善することが期待されたが、全くの期待はずれであった。大宰相のひげやターバンを引っ張るなどし、史家のイブラヒム・ペチェヴィは、この状況が国民に見られており、心理的に混乱していることを見破られていたと記録している。行動は変わらず、翌1618年、在位3か月で退位させられた。一方で、別の見方もあり、確かな証拠がなく、退位はむしろ政治的な陰謀で、精神的な不安定さの噂はあとから広められたのではないかとも言われる。
1622年に甥のオスマン2世がイェニチェリに殺害されると、再び即位した。この時も実権は母ハリメが握っていた。政治的に不安定な状況が続き、エルズルム総督アバザ・メフメド・パシャが蜂起して、大宰相ケマンケシュ・アリ・パシャがハリメを説得し、ムスタファの命の保障を条件に息子を退位させた。1623年、11歳のムラト4世が即位し、ムスタファは母とともに旧宮殿に送られた。1639年1月20日に死去した。甥のムラト4世が処刑したとする説と、幽閉が長かったためてんかんで亡くなったとする説がある。遺体はアヤソフィアの中庭に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー・ウォットン (1639年没)
- マルティン・デ・ポレス (1639年没)
- 陳継儒 (1639年没)
- トマソ・カンパネッラ (1639年没)
- マルティン・オピツ (1639年没)
同じ地域に関係する人物
- ゼキ・ヴェリディ・トガン (1970年没)
- レオーン6世 (912年没)
- Gevherhan Sultan (1631年没)
- ハイラニディル・カディネフェンディ (1898年没)
- アンドロニコス4世パレオロゴス (1385年没)