伝記
アンドロニコス4世パレオロゴスは、東ローマ帝国パレオロゴス朝の皇帝である。1348年4月11日にコンスタンティノポリスで生まれた。父は皇帝ヨハネス5世パレオロゴス、母はヘレネ・カンタクゼネで、その長男にあたる。5歳のころ、母方の祖父で共同皇帝だったカンタクゼノスによって、家族とともにダーダネルス海峡の入り口にあるテネドス島への流刑を言い渡されたが、父とともに島を脱出して首都へ戻った。1352年ごろ、幼いまま父の後継者に指名され、ブルガリア皇帝イヴァン・アレクサンダルの娘キラツァ・マリアと結婚した。結婚は1356年とも1365年ごろともいわれる。2人のあいだには、のちに皇帝となるヨハネス7世パレオロゴスが生まれた。
順調に帝位への道を進んでいたかに見えたアンドロニコスは、いつのころからか父を排して単独の支配者になる考えを抱くようになった。1370年、父はイタリア訪問中に負債の問題でヴェネツィアに拘束された。このとき首都で摂政を務めていたアンドロニコスは、拘束を解くために必要な手付け金を送るよう求められたが、これを無視したとされる。この役割を果たしたのは弟のマヌエルである。ただし、悪意からの行動ではなく、単なる手違いだったようだともいわれる。このころすでに、彼の周りには、ヨハネスを排して彼を擁立しようとする有力貴族の集団が形づくられつつあった。
1373年、アンドロニコスは、オスマン帝国の皇帝ムラト1世の長男サヴジ皇子と密約を結び、互いの父に対する反逆に踏み切った。反乱軍は、首都コンスタンティノポリスとオスマン帝国の首都エディルネの周辺を押さえたが、小アジアに赴いていたムラトが帰還すると、速やかに鎮圧された。ムラトはサヴジの目を潰して廃嫡し、同じことをヨハネス5世にも求めた。ヨハネスは決断を欠き、アンドロニコスとまだ幼い孫のヨハネス7世に目潰しを行ったが、視力を完全には奪えず、のちに2人とも治療で回復した。アンドロニコスは帝位継承から外され、首都の城壁にあるアネマスの塔に投獄された。代わりに、弟のマヌエルが共同皇帝、後継者に引き上げられた。
しかしアンドロニコスは権力への野心を捨てず、再び反逆に乗り出した。テネドス島をめぐるヴェネツィアとジェノヴァの争いで、前者を支持していた父に不満を抱くジェノヴァ人を味方に引き入れ、ムラト1世の支持も獲得して、1376年に反乱を起こした。今度は成功し、アンドロニコスはコンスタンティノポリスに皇帝として入城して、父と2人の弟マヌエル、テオドロスを、かつて自分が閉じ込められていたアネマスの塔に投獄した。ところが、ムラトの支援を得るために、オスマン帝国に1354年に奪われ、1364年に回復していたカリポリスの割譲や、歳費の支払いを約束しており、その履行を迫られた。これは国民感情を考えれば致命的で、急速に支持を失った。さらにテネドス島をめぐる一件は、第4次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争の開始という結末を迎えた。1379年、脱獄した父ヨハネス5世とマヌエルたちは、ヴェネツィアの支援でアンドロニコスを追い落とした。7月1日、アンドロニコスはコンスタンティノポリスを追われ、マルマラ海沿岸のセリュンブリアへ逃れた。
それでも復権を目指し、オスマン帝国とジェノヴァもこれを後押しした。1381年には、皇帝の称号、帝位継承権、トラキア沿岸地方の行政権が認められ、マヌエルの継承権は剥奪された。それでもなお父への敵対を止めず、1385年に再び反抗を企てたが失敗に終わり、6月28日にセリュンブリアで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- 王蒙 (画家) (1385年没)
- サイード・アリー・ハマドニ (1385年没)
- サヴジ (1385年)
- ジョーン・オブ・ケント (1385年没)
- バルシャ2世バルシッチ (1385年)
同じ地域に関係する人物
- Patriarch Parthenius III of Constantinople (1657年没)
- Theodora (922年没)
- Suleyman Nazif (1927年没)
- テオドラ (東ローマ女帝) (1056年没)
- マヌエル・コムネノス (1185年没)