伝記
トマソ・カンパネッラは、1568年9月5日、南イタリアのカラブリア州スティーロに、貧しい農民の子として生まれた。父は読み書きのできない靴職人だったともいう。14歳でドミニコ会修道院に入って托鉢修道士となり、自然哲学者ベルナルディーノ・テレージオの『自然論』を読んで、その自然主義と感覚論に感銘を受け、アリストテレス哲学に明確に反対するようになった。1589年にナポリに赴き、自然科学者デッラ・ポルタの影響のもと、魔術、錬金術、占星術、天文学、哲学などについて知識人たちと討論を重ねた。1591年には、すでに書き上げていた『感覚哲学』を出版した。
この出版はドミニコ会全体を震撼させ、宗門裁判所に召喚された。1592年8月28日の裁判で、主張を捨て、1週間以内にカラブリアに戻るよう命じられたが、これに逆らってフィレンツェ、ボローニャを経てパドヴァ大学に学生として籍を置き、ガリレイなどの学者と親交を深めた。ユダヤ教徒と信仰について議論した疑いで、友人とともにローマ教皇庁の牢獄に投じられ、1595年5月16日に釈放されると、修道院で謹慎を命じられ、その間に『ルーテル派、カルヴァン派、その他の異端にたいする対話』を著した。1597年に信仰上の疑義で再び捕らえられ、牢獄で宗教改革者フランチェスコ・プッチを知り、その処刑にも立ち会って、信念に殉じた死に共感をおぼえたという。
当時の南イタリアはスペインの支配下にあり、カンパネッラはその影響を排除しようと志した。占星術に基づいて計算した1599年8月に起こるはずの革命に合流し、共和政国家を樹立する企てに没頭し、あわせて腐敗したローマ教会や修道会の改革も目指した。しかし同志の裏切りで事が露見し、1599年9月6日に逮捕された。1601年まで続いた審問と拷問に耐え、正気を失ったふりをして処刑を免れたが、狂人とみなされて長く投獄されることになった。獄中で宗教的関心をさらに深め、1602年に主著『太陽の都』を執筆したほか、数多くの著作と詩を書き、獄中でも学者たちとの交流を保ち、ガリレオを擁護する文章も書いた。
『太陽の都』は、トマス・モアの『ユートピア』に匹敵する重要なユートピア文学とみなされている。労働、教育、性、宗教など生活のすべてに規則があり、多くの事物が共有される共産制的な社会を描き、教育の機会均等や勤労への敬意、労働時間の短縮などを記している。
1628年7月27日、教皇ウルバヌス8世の好意によって釈放された。猜疑心の強い教皇は、自分の詳細な運勢図が巷に出回っていると知り、天界からの悪意を避けるため、間近の月食の悪影響を除く儀式をカンパネッラに行わせた。ローマのラテラーノ宮殿で行われたこの儀式は、白い絹を壁に掛け、薬草を焚き、太陽と月を意味する2つのランプを置くもので、キリスト教の教義からは逸脱した魔術的なものであった。しかし著作の出版は禁じられ、再逮捕の危険を感じて、1634年12月にフランスへ亡命した。哲学者ガッサンディや枢機卿リシュリュー、国王ルイ13世に迎えられ、1639年5月21日、パリのサン・トノレ通りにあるドミニコ修道院で死去した。テレージオ的な自然主義と、プラトンやアウグスティヌスの伝統との新しい総合を目指したとする見方もある。
同じ年に亡くなった人物
- ルーラント・サーフェリー (1639年没)
- メウルシウス (1639年没)
- ムスタファ1世 (1639年没)
- ヘンリー・ウォットン (1639年没)
- Sophie of Brunswick-Luneburg (1639年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・モンモール (1719年没)
- ドラ・マール (1997年没)
- アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー (1877年没)
- エミール・ギルマン (1907年没)
- フアン・アルモンテ (1869年没)