伝記
シリアのエフレムは、306年頃に生まれ、373年に没した、4世紀のシリアで活躍したキリスト教の修道士、聖歌作家、神学者であり、生涯を輔祭(助祭)として過ごした。現在のシリアとトルコの国境にあるニシビスに生まれ、母語は古典シリア語である。ニシビスは東西交易の合流地として栄えた町だが、のちに破壊され、現在はトルコの小さな町になっている。彼の賛歌の分析から、両親がこの町で増えつつあったキリスト教徒の共同体に属していたと推測されている。一方、後世の聖人伝作者は、父は異教の司祭で、息子の改宗に怒って家から追い出したと書いた。当時のニシビスでは多くの言語が話され、さまざまな異教、ユダヤ教、初期のキリスト教諸派が人々の心をめぐって競い合っていた。298年には、皇帝ディオクレティアヌスがペルシア王ナルセスとの条約でこの町をローマ領とし、彼の青年期には、ディオクレティアヌスの迫害の記憶がなお生々しかった。
ニシビス最初の主教ヤコブは308年に任命され、エフレムは、彼が共同体を率いるもとで育った。ヤコブは第1回ニカイア公会議の出席者の一人として知られる。エフレムは若いうちに洗礼を受け、「契約の子ら」という初期シリア修道制の集団に入ったとみられ、ヤコブから教師に任じられ、助祭に叙階された。教育の務めのなかで賛歌を作り、聖書注解を書き始めた。337年にコンスタンティヌス帝が死ぬと、ペルシア王シャープール2世が北メソポタミアのローマ領を攻め、ニシビスは338年、346年、350年に包囲された。エフレムは、最初の包囲で主教ヤコブの祈りが町を守ったと述べる。350年の3度目には、シャープールがミュグドニオス川の流れを変えて城壁を崩そうとしたが、市民はすぐに壁を直し、ペルシアの象騎兵は湿った地面にはまり込んだ。エフレムは、この町の救いを、洪水の上を安全に浮かぶノアの箱舟にたとえる賛歌で称えた。363年にペルシアが迫ると、彼は学校の弟子たちとともにアミダへ逃れ、次いでエデッサに移り、373年の死までそこで暮らした。極度の禁欲と観想の生活を送ったといい、その内なる炎から生まれた詩情が、「聖霊の竪琴」と称される所以である。
教会の伝承では、少年時代のエフレムは短気で喧嘩を好み、神の存在にさえ疑問を抱いていた。ある日、羊飼いの家に泊まった夜に狼が羊を殺し、盗賊を手引きしたと誤解されて無実の罪で投獄された。牢で夢の声を聞いて過去を省み、悔い改めて隠遁者となり、主教ヤコブの弟子になったという。晩年にはエジプトの荒野の隠遁者たちを訪ね、帰路にカイサリアの大バシレイオスに会った。バシレイオスは司祭に叙任しようとしたが、エフレムは固辞して死ぬまで助祭にとどまった。エデッサで飢饉が起きると、富裕な人々に食物を分けるよう説き、寄付金で救済施設を建てて、貧民や病人を救ったと伝えられる。ただしこれは確認された歴史的事実ではない。
彼は賛歌、詩による説教、散文の聖書注解を書いた。注解は新旧約の両方に及び、とりわけモーセ五書のものが知られる。その作品は非常に人気があり、霊感を受けた聖書のように礼拝で読まれた時期もあり、死後何世紀にもわたって、彼の名を借りた偽作が何百も書かれた。正教会で大斎の間に用いられる「エフレムの祝文」も彼のものとされる。カトリック教会では1920年に教会博士とされた。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドリアのアタナシオス (373年没)
同じ地域に関係する人物
- Thaddeus of Edessa (50年没)
- クルチ・アルスラーン1世 (1107年没)
- バルダイサン (222年没)
- プブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前53年没)
- テオドロス・アブー・クッラ (820年代没)