HISTORICAL PERSON · 373年没

アレクサンドリアのアタナシオス

4世紀のキリスト教神学者でギリシア教父、アレクサンドリア主教。第1ニケア公会議でアリウスに反駁し、御父と御子の同質を主張してニカイア信条の採択と三位一体論の形成に寄与した。5回追放されたが帰還した。

生涯
373年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県 / アレクサンドリア)
出生地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県)

伝記

アレクサンドリアのアタナシオスは、4世紀のキリスト教の神学者、ギリシア教父であり、エジプトのアレクサンドリアの主教を務めた人物である。大アタナシオスとも呼ばれ、コプト教会では使徒的アタナシオスと称される。生まれた年ははっきりせず、293年から298年のあいだとされる。正教会は297年頃とする。ある研究者は、303年のマクシミアヌスの迫害を実際に覚えていた様子がないことから、生年を296年から298年の間と見る。また、328年に彼が総主教に叙階された際、アリウス派は、彼が教会法の定める年齢の35歳に達していないと非難した。この非難がもっともらしく見えたことも、生年の手がかりとされる。出生地もアレクサンドリアとも、ナイル・デルタの町ダマンフルともいわれる。

両親はキリスト教徒で、立派な世俗教育を受けさせられるほど裕福だったが、エジプトの貴族ではなかった。彼が主にギリシア語で著作したため、ギリシア人の子だと考える西洋の研究者もいる。しかし、彼はナイル河畔の原住民の言葉であるコプト語にも通じていたとされ、伝わる著作の写本にはコプト語のものもある。若い頃には砂漠の修道士たちと親しく交わり、厳格な修練を学んだ。ルフィヌスは、主教アレクサンドロスが窓から、浜辺で洗礼の儀式を真似る少年たちを見た話を伝える。その一人が主教役を務めたアタナシオスで、アレクサンドロスは、洗礼の言葉と水が正しく用いられたので有効だと告げ、続けてはならないと諭し、聖職者の道への準備に誘ったという。のちに彼は主教の秘書となった。

325年、アレクサンドリアの助祭として、第1回ニカイア公会議に出席した。この時27歳ほどであった。彼は主教アレクサンドロスを助け、アリウスに反駁して、御子は被造物であるというアリウス派の説を退け、父なる神と子なる神は同質、すなわち同一本質であると主張した。これはニカイア信条に採択され、三位一体論の形成に寄与した。信条が決議されたあと、コンスタンティヌス帝はアリウスの同調者たちに署名を迫り、威圧された司教たちは、二人を除き、多くが不本意ながら署名した。しかし論争は決着せず、その3年後の328年に彼は師の後を継いでアレクサンドリアの主教となり、以後、皇帝コンスタンティヌス、コンスタンティウス2世、背教者ユリアヌス、ウァレンスと、ニコメディアのエウセビオスが率いる有力なアリウス派聖職者を相手に争い続けた。その結果、アリウス派の策動で計5回、合わせて約17年の追放を受けたが、そのたびに帰還した。在位は、断続的ながら45年に及んだ。

論争より前に、「異教徒反駁」と「言の受肉について」という二つの著作を書いた。前者では唯一神論を、後者では救済論を展開している。この二著は318年頃、アリウス派の影響が現れる前に書かれたとみられ、その成熟ぶりが、早い生年説の根拠にもされる。人類を救えるのは神だけであり、救いは新しい創造の業だから、創造主のみが救いをもたらせるというのが彼の考えだった。「神が人となったのは、人が神になるためであった」という言葉は、正教会の神学で重要な神成の概念を示すものとされる。隠遁修道者アントニオスの伝記も書いた。373年5月2日に没した。カトリック教会、正教会、非カルケドン派諸教会、聖公会、ルーテル教会で聖人とされ、バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、クリュソストモスと並ぶ四大ギリシア教父の一人に数えられる。アリウス派との闘いにより、東西の教会で「正統の父」と称えられている。

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