伝記
哀帝は、東晋の第6代皇帝である。諱は丕、字は千齢。第3代皇帝成帝の長男で、咸康7年(341年)に生まれたとされる。母は周貴人で、342年には弟の司馬奕が生まれた。
成帝が病に伏した342年夏、何充は、長男が継ぐのが通常の継承だと指摘した。しかし外戚の庾冰は、自分たちの一族と結びつく新帝を望み、北に強敵の後趙がある国難の時期に幼君は相応しくないと成帝を説得した。成帝は弟の琅邪王司馬岳に位を譲ることを認め、まもなく崩御して、司馬岳が康帝として即位した。わずか2歳であった司馬丕は帝位を継げず、同年に琅邪王に封じられた。344年11月に康帝が没したときも、康帝は幼い息子の司馬聃に位を譲った。永和元年(345年)に散騎常侍となり、永和12年(356年)に中軍将軍が加わり、升平3年(359年)には驃騎将軍を拝命した。妻の王穆之が琅邪王妃であったことは分かるが、結婚の時期は伝わらない。
升平5年(361年)、従弟の穆帝が後嗣なく崩御すると、穆帝の母である褚太后の懿旨により即位した。20歳であった。同年10月に琅邪王妃の王氏を皇后に立て、弟の司馬奕を琅邪王とした。成人していたため褚太后は摂政をしなかった。年号は362年3月に隆和、翌363年3月に興寧と改められた。362年には母の周氏を、太后に準じる物資と儀礼で遇した。戸口調査を行って人民の土着に努めたが、実権は成漢征討と洛陽奪回の功を立てた桓温と、皇室の長老で大叔父にあたる会稽王司馬昱が握り、哀帝自身は傀儡同然であった。362年、洛陽一帯を固めた桓温が、かつて漢趙に奪われた旧都洛陽への遷都を求めたが、哀帝の詔により朝廷は断った。363年に母の周氏が没したときは、褚太后への敬意から、母としての通常の服喪を行わなかった。
不老長寿への執着が強く、それが死を招いたと史書に記される。政務を顧みないまま、仏法を好み、不老長寿を求める長生術に没頭した。若年にもかかわらず、方士から与えられた丹薬に中毒し、364年には重病となって、日常生活も重要な政務の処理もできなくなった。このため興寧2年(364年)3月から、褚太后が再び摂政として臨んだ。同じ年、前燕が洛陽に大規模な攻撃をかけ、桓温と司馬昱は反撃による救援を検討したが、哀帝が没したため計画は中止され、洛陽はまもなく陥落した。
興寧3年(365年)正月、皇后の王氏が先立って世を去り、哀帝も同年2月に西堂で崩じた。享年25とされる。子には庶出の男子が一人あり、363年に生まれたが、父より先に若くして死んだ。皇后とは皇帝の礼で合葬された。後嗣がなかったため、弟の司馬奕が帝位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- フェリクス2世 (対立教皇) (365年没)
- Saint Isidora (365年)