HISTORICAL PERSON · 紀元前473年没

夫差

中国春秋時代の呉の第7代で最後の王。父闔閭の仇を討つため薪の上に寝て復讐を忘れず、伍子胥の補佐で勾践を降したが許して帰国させた。後に伍子胥を死なせ、勾践の反撃で紀元前473年に都が陥落し自決した。

生涯
紀元前473年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(江蘇省 / 蘇州市)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

夫差は、中国の春秋時代に呉の第7代の王を務め、呉の最後の王となった人物である。姓は姫で、春秋五覇の一人に数えられることもある。先代の闔閭の次男で、紀元前495年に即位したとされる。本来の太子は長兄の波だったが、波は妻を亡くしたうえ、息子を残さずに若死にした。そこで夫差は、父の信任が厚い重臣の伍子胥に、自分を新しい太子に推すよう熱心に頼んだという。闔閭は「夫差は暗愚で人情に薄く、人の上に立てる人間ではない」と案じたが、夫差の働きかけと、右腕である伍子胥の顔を立てる思いから、夫差を太子とした。

闔閭は、越王勾践が范蠡の助言を入れて国力を伸ばしていたころに越へ攻め込んだが、反撃を受けた。越の武将霊姑孚の放った矢で足の親指に傷を負い、それが原因で破傷風となって死んだ。闔閭は兄弟の公子子山との後継争いを避けるため、急いで夫差を呼んで後継者とし、「勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と遺言した。夫差は寝室に入るたびに部下にこの言葉を繰り返させ、固い薪の上で眠って体の痛みから復讐を忘れまいとしたと、『史記』は伝える。これが「臥薪嘗胆」の故事である。

伍子胥の補佐で国力を整えた呉は、攻め込んできた勾践を逆に追い詰めた。勾践が命乞いをすると、伍子胥は許すなと言ったが、宰相の伯嚭は許すよう勧めた。伯嚭は越から賄賂を受けており、夫差は越の策に乗って勾践を許し、帰国させた。勾践は妻と范蠡を連れて呉の宮廷に仕え、3年後に帰国を許されたともいわれる。その後、夫差は北へ進出して覇者になることを夢み、越の復讐を恐れる伍子胥の諫めを疎んじた。紀元前486年には長江と淮水をつなぐ邗溝が掘られ、斉との戦いの補給を助けた。紀元前484年、伯嚭の讒言によって夫差は伍子胥に剣を授けて死を命じ、伍子胥は自ら命を絶った。この裏には范蠡の離間の計があったともいわれる。

紀元前482年、夫差は黄池で晋と諸侯の盟主の座を争った。ところがそのさなかに、越が呉の本国を攻め、留守を預かっていた太子の友らが殺されたとの知らせが届いた。夫差は動揺し、諸侯に知れて主導権を失うことを恐れて口止めをしたが、情報は漏れ、疑われた7人が処刑された。晋の趙鞅の威圧もあって盟主の座は諦めざるをえず、帰途は伯嚭の進言でゆっくり帰国し、宋を攻めたりもした。越も呉を一気に滅ぼす力はなく、いったんは和睦した。その後も越の攻勢は続き、紀元前475年には公子慶忌が「王は行いを改めないと、いずれ滅びるでしょう」と諫めたが、夫差は聞き入れず、のちに慶忌を誅殺した。夫差の治世の末には、越から送られた美女の西施におぼれたという話も語られるが、この話が現れるのは約5世紀後の書物である。

紀元前473年11月、ついに都の姑蘇が陥落した。夫差は姑蘇山へ逃れ、公孫雒を遣わして和睦を求めた。勾践は憐れんで夫差を甬東へ流そうとしたが、范蠡は強く反対した。これを伝え聞いた夫差は、「私は年老いました。もう君主にお仕えすることはできません」と述べ、「子胥に合わせる顔がない」と顔に布をかぶせて自ら首をはねて死んだ。勾践はこれを憐れんで丁重に葬り、呉の滅亡の元凶として伯嚭を処刑した。夫差の子には友、洪、徳らがいたとされ、滅亡後に残った子らは追放され、子孫は呉を氏としたという。日本の松野連は夫差の子孫を自称した。夫差と勾践の物語は、中国で故事として広く知られている。

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