伝記
フェリクス2世は、4世紀半ばのローマで教皇リベリウスに対立して立てられた対立教皇である。在位は355年から365年11月22日までとされ、生年は不明である。ミラノで助祭長・司教を務めていたとする説明がある一方、ローマの助祭長であったとする説明もある。ローマ生まれで287年ごろの生まれとする説もあるが、確かなことは分からない。
355年、皇帝コンスタンティウス2世は、アタナシウスを断罪する宣告に署名することを拒んだリベリウスを追放した。その後釜として立てられたのがフェリクスである。ローマの聖職者たちは、司教が生きているうちは別の司教を認めないと誓っていたが、皇帝の圧力のもとでフェリクスは考えを改め、三人のアリウス派の司教によって叙階されたと伝えられる。聖職者は彼に従ったが、民衆はリベリウスに忠実なままだった。その選出は聖職者と民衆の望みに反するもので、叙階の儀式は宮廷付きの聖職者が執り行ったという。
357年、ローマに滞在していた皇帝に対し、リベリウスに忠実だったローマの人々がその呼び戻しを求めた。皇帝はリベリウスとフェリクスに共同で教会を治めさせようと考え、聖職者が民衆を大競技場に集めてその案を告げたところ、激しい反発を受けたという。リベリウスが358年の夏にローマへ入ると、あらゆる階層の人々が熱狂して迎え、暴動が起きてフェリクスは市外へ追われた。
その後フェリクスは一度ローマへ戻ろうとしたが果たせず、ローマ近郊のポルト、あるいはローマ郊外の所領に退いた。郊外に小さな教会を建てて、なおも教皇を名乗り続けたともいわれる。365年11月22日に死去した。没した場所はポルトとも、チェリともされる。晩年については伝えが食い違い、詳しくは分かっていない。
死後、フェリクスは同名の殉教者と混同された。この殉教者はポルトゥエンセ街道沿いの墓地に葬られた人物で、フェリクスがアウレリア街道に教会を建てたという伝承も混同の一因と考えられている。こうして中世にはフェリクスが合法の教皇や殉教者、聖人として敬われ、歴代教皇の表にフェリクス2世として載った。その結果、後に続くフェリクス3世、4世、さらに対立教皇フェリクス5世の番号もずれることになった。殉教者の祝日は7月29日で、のちの版のローマ殉教録やミサ典礼書では、対立教皇との同一視は取り除かれている。
同じ年に亡くなった人物
- Saint Isidora (365年)
- 哀帝 (東晋) (365年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・ダヴィド・オケルブラッド (1819年没)
- ヨランダ・マルゲリータ・ディ・サヴォイア (1986年没)
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス (紀元前45年の補充執政官) (紀元前45年没)
- プリモ・ネビオロ (1999年没)
- ジャン・ルイジ・ポリドロ (2000年没)