伝記
マル・シムン・バル・サバエ(シメオン・バルサバエ)は、ササン朝ペルシアのセレウキア・クテシフォンの司教で、東方教会の事実上の指導者を務めた人物である。シャープール2世によるキリスト教徒への迫害のなかで、ゾロアスター教への改宗を拒んで処刑された。没年は341年とも、339年とも、345年ともされ、聖金曜日に殺されたと伝えられる。
洗濯屋(縮絨工)の子として生まれ、2人の姉妹がおり、その一人はタルブラという名だった。母語はシリア語で、「バル・サバエ」は「染物屋たちの子」の意と解されるが、この意味については学者のあいだで議論がある。316年、前任者パパ・バル・ガッガイの補佐司教に任じられ、セレウキア・クテシフォン(現在のマダーイン)で働いた。前任者の死後、326年か327年に後任に選ばれ、東方教会の第2代カトリコスとされる。
当時のペルシアはローマ帝国と戦争をしており、シャープール2世が戦費のためにキリスト教徒への課税を重くすると、シムンはこれを拒んだとされる。のちにローマ皇帝の友人であり、皇帝と密かに文通しているとの嫌疑をかけられた。これを根拠に、シャープール2世はキリスト教の司祭すべての処刑を命じた。シムンが王の母イフラ・ホルミズドをキリスト教に改宗させたとみられることも、この命令の理由の一つとされる。教会が破壊されるなどの迫害は341年から345年にかけて続いた。
太陽を拝むというゾロアスター教の要求を拒んだシムンは、聖金曜日に、多くの司教、司祭、信徒とともに斬首された。同じ時に殺された人々には、司祭のアブデラ、アナニアス、クスダザト、プサイ、プサイの娘アスキトレア、宦官のアザドらがいる。仲間の人数は、1150人とも100人ともいわれる。5世紀の歴史家ソゾメノスは犠牲者を1万6千人としたが、10世紀の歴史家マスウーディーは約20万人が殺されたと述べている。
シムンは殉教者・聖人として崇敬され、記念日は、カトリックのローマ典礼では4月17日(1956年版では4月21日)、東方正教会では4月17日、シリア正教会では復活祭の後の金曜日、東方アッシリア教会では夏の第6金曜日とされる。
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